寺沢広高(読み)てらざわ・ひろたか

朝日日本歴史人物事典 「寺沢広高」の解説

寺沢広高

没年:寛永10.4.11(1633.5.18)
生年永禄6(1563)
江戸初期の大名。通称忠次郎,正成,広忠ともいう。志摩守。従四位下。寺沢広正の嫡子尾張(愛知県)生まれ。豊臣秀吉に仕え,文禄1(1592)年からの朝鮮の役では名護屋城普請,後備衆として 置兵糧,船継などの差配,明の講和使節接待役に当たった。慶長5(1600)年関ケ原の戦では東軍に属し,恩賞として肥前国天草4万石を加増,都合12万石の大名となった。文禄1年から長崎奉行兼任,朱印船貿易の創始に努めたが,慶長7年ポルトガル船貿易をめぐる対立から同役を解任された。これは秀吉子飼いの外様大名寺沢氏が,徳川政権下で排除されたことを意味していよう。なお,広高がキリスト教へ改宗したという説については,イエズス会の記録などに否定的な見解がみられる。<参考文献>松代松太郎『賢君寺沢志摩守』

(福田千鶴)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「寺沢広高」の意味・わかりやすい解説

寺沢広高 (てらさわひろたか)
生没年:1563-1633(永禄6-寛永10)

安土桃山・江戸初期の武将尾張国に生まれ,豊臣秀吉のもとで肥前国唐津6万石の領主となり,1589年(天正17)志摩守となる。文禄・慶長の役の功で筑前国怡土郡2万石を,関ヶ原の戦では東軍に属し肥後国天草に4万石を加増された。天草における検地とキリシタン弾圧は厳しさを極めた。91年から1603年(慶長8)まで長崎奉行の任にあり,中央政権による長崎直轄体制を支えた。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺沢広高」の解説

寺沢広高 てらざわ-ひろたか

1563-1633 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)6年生まれ。肥前唐津(からつ)(佐賀県)城主として豊臣秀吉の朝鮮出兵に際し名護屋城の普請などを担当。関ケ原の戦いでは東軍に属し,肥後(熊本県)天草に4万石を加増され,12万3000石となった。肥前唐津藩主寺沢家初代。寛永10年4月11日死去。71歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。初名は正成。
格言など】ただ聞くのみにて見ぬことは,利害損益必らず尽くさざる所あらん

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の寺沢広高の言及

【唐津藩】より

…肥前国(佐賀県)松浦郡唐津に藩庁を置いた譜代中藩。1593年(文禄2)朝鮮の役で改易された波多信時に代わって豊臣大名寺沢広高が配置されたことに始まる。石高は6万3000石。…

【肥後国】より

…小西行長は石田方に属して敗れ,加藤清正は徳川方について九州の石田方と対抗,小西行長の宇土城を攻めておとし,戦後小西氏の旧領を与えられたが,願いにより天草郡の代りに豊後国のうち鶴崎,野津原(2万3600石余)を与えられ,肥後熊本藩万石が成立した。天草郡(3万3846石余)は唐津藩主寺沢広高に与えられた。これによって,熊本藩,人吉藩,天草郡の3藩領ができた。…

※「寺沢広高」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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