寺分村(読み)てらぶんむら

日本歴史地名大系 「寺分村」の解説

寺分村
てらぶんむら

[現在地名]柳田村寺分

村域南部を寺分川が東流し、東は天坂てんざか村、南の五郎左衛門分ごろうざえもんぶん村とは地籍が複雑に入組む。村名は平等びようどう寺の寺領であったためといわれる。郷村名義抄(能登志徴)によれば、かつて六坊の寺があり、その寺領であったための村名という。天正一五年(一五八七)一〇月一四日書写の平等寺田帳(平等寺文書)によれば、大坊分七九〇刈・円満坊分一千三一〇刈・多門寺分一千二〇刈・北之坊分五六〇刈・三ッ蔵坊分三〇刈・満月坊分七八〇刈の六坊が記され、計四千四九〇刈の田地が本郷五郎左衛門正信によって検注されている。

寺分村
てらぶんむら

[現在地名]鎌倉市寺分・寺分一―三丁目・梶原かじわら一―二丁目

葛原くずはら岡から西方に連なる丘陵の西斜面の谷間に位置し、西方に戸部とべ(柏尾川)が流れ、北は上町屋かみまちや村、東は山崎やまざき村、南・西は梶原村に接する。村内に鎌倉十刹の大慶たいけい寺があり、中世末に付近一帯は洲崎すさき(須崎)とよばれていたので、「洲崎大慶寺分」を略して寺分となったらしい。

天文一六年(一五四七)一一月二一日の北条氏康判物(県史三)では、武蔵比企ひき三保谷の養竹みほのやのようちく(現埼玉県比企郡川島町)にいた奇文禅才に対して「前々寺領由候間、須崎大慶寺分進置候」と、当地の支配を安堵していて、小田原衆所領役帳に養竹院「四拾七貫文 東郡須崎大慶寺分」とある。

寺分村
てらぶんむら

[現在地名]真岡市寺分・松山町まつやまちよう

鬼怒川左岸の平坦地で、粕田かすだ村に周囲を囲まれている。中村なかむら庄に属し粕田村の一部であったが、古くは荘厳しようごん寺の支配地であり、分郷して寺分と称したという(「中村郷土誌」中村八幡宮蔵)。その後宇都宮藩領。慶安郷帳によると、田高一二四石余・畑高九四石余。貞享二年(一六八五)幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本小田切・大森の相給、延享三年(一七四六)開田の検地高入があり、その反別三町六反余・高七石余は幕府領。

寺分村
てらぶんむら

[現在地名]上越市寺分

中屋敷なかやしき村の南に続き、江戸時代には中屋敷村内で、林泉りんせん寺の朱印地二二四石のうち一〇〇石の地域

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報