富野村(読み)とのむら

日本歴史地名大系 「富野村」の解説

富野村
とのむら

[現在地名]城陽市字富野・字長池ながいけ

現城陽市の中央部に位置する。北は寺田てらだ村、東南はなか村、西は枇杷庄びわのしよう村、南は観音堂かんのんどう村に接する。「和名抄」の久世郡富野郷の地にあたる。地名の起りは、木津きづ川原に近く、芦荻の生い茂る中で多くの鳥が群生するさまを鳥野と称したことによるとも、また内野に対する外野の意ともいうが明らかでない。

延久の荘園整理令後の延久四年(一〇七二)九月五日付太政官牒(石清水文書)に、かつての石清水いわしみず八幡宮寺領三四ヵ所のうち、もとのごとく領掌が認められた二一ヵ所が記される。そのうちに「奈美・富野両所」があり、それまで領有していた一〇町九段余の地は否定されたが、石清水八幡宮放生会に奉仕する神人二人の臨時雑役のみが免除された。すなわち平安時代中期の富野の地には石清水八幡宮の荘園があり、またその放生会に奉仕する神人がいた。

「賀茂注進雑記」に載せる文治二年(一一八六)九月五日付の源頼朝下文には、奈美なみ郷を含む付近の五郷とともに富野郷を記し、「右件所々者賀茂別雷社領也」として武士の狼藉を停止するとともに、先例どおり神役の勤仕を命じている。

富野村
とみのむら

[現在地名]小倉北区上富野かみとみの一―五丁目・高浜たかはま一―二丁目・須賀町すがまち富野台とみのだい常盤町ときわまち神幸町しんこうちよう小文字こもんじ一―二丁目・山門町さんもんちよう下富野しもとみの一―五丁目・富野・大田町おおたまち宇佐町うさまち一―二丁目

砂原すなはら村の東、足立あだち山系の北寄りの麓に広がり、村内を延命寺えんめいじ(古くは大谷川)が流れる。小倉城下門司もじ口を出て長浜ながはま浦から海岸沿いに赤坂あかさか村方面に至る大里だいり往還(長崎街道)が通る。元和八年人畜改帳に富野村とみえ、高一千三一七石余、家数一一三、人数二八三(うち惣庄屋一・百姓二〇・名子一二・坊主一・社人一)、牛四五・馬六。小倉藩幕府に富野村一ヵ村として報告していたが、領内では宝永四年(一七〇七)上富野村(北東部側)・下富野村(南西部側)に分け、それぞれ庄屋を置いた。

富野村
とみのむら

[現在地名]中里町富野

岩木川右岸デルタの微高地に立地し、北は豊岡とよおか村、東は大沢内おおざわない村、南は豊島としま村、北西は蘆野あしの村、西は岩木川をもって下繁田しもしげた(現西津軽郡稲垣村)に接する。

金木新田一八ヵ村の一つで、開村年代は不詳だが、宝永元年(一七〇四)に藩の米蔵が建てられている(中里町誌)。徳田家由緒書(金木郷土史)によると、徳田伝兵衛が「享保五年富野村御蔵奉行被仰付」たが、「同処数度の洪水ニ付」享保一八年(一七三三)八幡はちまん村へ移された(青森県租税誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報