宮戸島貝塚(読み)みやとじまかいづか

日本歴史地名大系 「宮戸島貝塚」の解説

宮戸島貝塚
みやとじまかいづか

[現在地名]鳴瀬町宮戸 寺下囲・西畑囲・台囲・梨木囲・畑中囲・袖窪囲

里浜さとはま地域一円を占める広大な貝塚で、標高二〇メートルの台地から汀線近くまで分布。かつては里浜貝塚風越かざこし貝塚、台囲だいがこい貝塚、梨木囲なしきがこい貝塚と個別に呼称していたが、各地区の調査を実施した結果、総合して宮戸島貝塚と呼称したほうが妥当とされた。調査は松本彦七郎・長谷部言人・早坂一郎らによって古くから実施され、その結果は学史に残る。その後、昭和初期に斎藤報恩会、山内清男、昭和二六年(一九五一)からは塩竈市史編纂委員会、宮戸島遺跡調査会等による長期の調査が実施され、同五四年からは漁労生活の解明を目標に東北歴史資料館の調査が展開されている。大正七年(一九一八)・八年松本は遺跡の層位学的調査による遺物の編年学的研究を進め、凸曲線文土器(青島式)が凹曲線文土器(宮戸式)より古式であることを立証、以後層位学的調査法は考古学の常道となった。また当時は石器時代人の研究が高揚しており、里浜の狭い調査区から一四体の人骨が発見され、そのなかに老人と子供が抱合った形の複葬や死体に丹を振掛けたものなどがあり、宮戸人骨とよばれ学界で喧伝された。のちの宮戸島遺跡調査会の調査でも硬玉質の勾玉小玉、貝製腕輪、鹿角製腰飾を着したもの、浅鉢被葬の硬玉質勾玉首飾を着装した小児遺体など、豊猟を願う祭祀と思われる遺構を備えて二一体が発見され合計三五体を数える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮戸島貝塚」の意味・わかりやすい解説

宮戸島貝塚
みやとじまかいづか

里浜貝塚

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