室沢村(読み)むろさわむら

日本歴史地名大系 「室沢村」の解説

室沢村
むろさわむら

[現在地名]粕川村室沢・中之沢なかのさわ

赤城山小沼この(現富士見村)から流れ出し、銚子ちようしの伽藍で環壁を破り南麓へ一気に流下する粕川の最上流の村で、その左岸に位置する。東は板橋いたばし(現新里村)、西は粕川を挟んでなえしま村・馬場ばば(現宮城村)、南は月田つきだ村。北は赤城山原野に接し、小沼南方の外輪山の環壁を北限とする。寛文郷帳によると田方二二六石余・畑方一〇九石余、「雑木山芝山有」とある。前橋藩領。天明六年(一七八六)の淀藩領勢多郡郷村高帳(国立史料館蔵)では高五三二石余。江戸後期の御改革組合村高帳でも山城淀藩領、家数三七。日光裏街道(大胡道)とよばれる日光への脇往還が村の西から入り、村の中央を南から北へ抜け、東へ曲がって通り抜ける。この道に沿って宿場の形態を作っていた。全徳ぜんとく寺の前にある庚申塔の台石が道標になっていて、「右日光道、左湯之沢、三夜沢」とあり、寛政一二年(一八〇〇)村中の建立。宿場としての名残は街道沿いの屋敷割用水の名残の川、本家・桐屋・叶屋などの宿屋休茶屋の熊野屋など屋号石垣、建物にとどめている。

粕川は赤城山南麓の主要な河川であり、流域一帯の村村の重要な灌漑用水であった。享保二年(一七一七)粕川の分水のことで当村を中心とする川東七ヵ村と苗ヶ島村を中心とする川西七ヵ村の間で水論が起こり(「分水訴状」松村文書)、翌年分水取極証文(同文書)が取交わされた。証文は粕川の水を一四ヵ村が引いてきたことを確認したうえで苗ヶ島村大堰・室沢村大堰・同村小麦こむぎ堰・苗ヶ島村矢之下やのした堰・同村丹蔵皆戸たんぞうがいと堰では従来どおり五分五分に水を引くこと、室沢村石原いしわら堰は堰下二町余へ懸ける分だけ引き、余水は本川へ落すこと、室沢村石原堰・馬場北之皆戸きたのがいと堰・同村前田まいだ堰・月田村磯之木いそのき堰の四ヵ所は砂留堰なので時水(定められた時間内の引水)以外は絶対に水を引かぬこと、川東七ヵ村の植水(田植時の水)は室沢村大堰・小麦堰二ヵ所から引くこと、川西の馬場村・大前田おおまえた(現宮城村)の仕付水は苗ヶ島村の三ヵ所の堰から引くこと、川西の込皆戸こみがいと村・新屋あらや村・深津ふかづ村・女淵おなぶち村の時水は苗ヶ島村・室沢村が用済後、明六つ上刻より五つの下刻まで引き、四つの上刻からは上流の村の用途に供すべきことなどを取決め、最後の条には「糟川通り堰々普請致方之儀、自水之外増水之節ハ、本川流候様ニ堰ひきひき可致候事」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報