宝鏡寺(読み)ほうきようじ

日本歴史地名大系 「宝鏡寺」の解説

宝鏡寺
ほうきようじ

[現在地名]上京区百々町

山門寺之内てらのうち通に南面する。単立寺院で、もと臨済宗相国しようこく寺管轄。西山と号し、俗に百々どど御所とか人形寺と称される尼門跡寺院。本尊聖観音。鎌倉円覚寺の開祖無学祖元(仏光国師)の弟子無外(無著)如大尼が、五辻大宮いつつじおおみや北西に開創した景愛けいあい寺内に建立された福尼寺を(延宝伝灯録)、応安年中(一三六八―七五)光厳天皇皇女恵厳禅尼(景愛寺六世)が現在地に再興したことに始まるという(平安通志)。「和漢三才図会」は将軍足利義政の女が文亀年中(一五〇一―〇四)建立したとの別伝を記す。宝鏡寺と改めたのは、「坊目誌」では後円融天皇が観音と脇士の善財童子・須達長者を寄進したからといい、寺伝は光厳天皇皇女華林宮から当寺に寄進された観音が、伊勢二見ヶ浦で漁網にかかったとき両手に宝鏡をもっていたことによるという。

宝鏡寺
ほうきようじ

[現在地名]小山町竹之下

鮎沢あゆざわ川右岸の足柄あしがら峠登山口に位置し、大雄山と号し、曹洞宗。本尊の木造地蔵菩薩坐像は子育て延命地蔵・蕎麦切地蔵として有名。鎌倉時代後半から南北朝期の檜の寄木造、慶派の仏師の作で県指定文化財。六〇年に一度の開帳で、最近では昭和六〇年(一九八五)に行われた。天正一〇年(一五八二)五月八日の北条家定書(神原文書)に足柄城攻撃の「大手法経寺口」とみえる。それ以前の永禄一二年(一五六九)一二月一八日の北条氏康書状(岡部文書)に「峠ニハ陣庭無之間、地蔵堂辺可然歟」とみえる地蔵堂が当寺と推察される。

宝鏡寺
ほうきようじ

[現在地名]都留市桂町

国道一三九号の南側に位置する。曹洞宗。山号は金鼇山。本尊釈迦如来。開山は鶏岳永金で、寛正三年(一四六二)没。鶏岳は順徳天皇の皇子寒巌義尹(曹洞宗法王派)の五世法孫で、遠江国普済ふさい(現静岡県浜松市)の開祖華蔵義曇の門下一三哲の一人。夏狩なつがり村の鷹籠陵月畝つきよねに安居すること三年、同村の内森うちもりに移り当寺を建立。寺号は鶏岳が普済寺に住していたときに宝鏡山を居所としていたことにちなみ、その山が亀形に似ていたため山号を金鼇山と名付けたとされる(以上「甲斐国志」)

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改訂新版 世界大百科事典 「宝鏡寺」の意味・わかりやすい解説

宝鏡寺 (ほうきょうじ)

京都市上京区にある,もと臨済宗の寺で,現在は単立寺院。西山と号する。百々御所(どどのごしよ)とも呼び,比丘尼御所の一つ。光厳天皇の皇女恵厳禅尼が応安年間(1368-75)福尼寺を再興したことに始まると伝え,寺伝では本尊の観音が手中に宝鏡を所持したことから,宝鏡寺と称したという。1644年(正保1)後水尾天皇の皇女久厳禅尼の入寺以来,幕末まで皇女の入寺が続き,尼門跡寺院として皇室との関係が深まった。1788年(天明8)の大火で焼失したが,光格天皇の援助で復興。したがって当寺は光格天皇遺品の人形や双六(すごろく)や貝覆(かいおおい)などの宮廷の遊戯道具を多数所蔵し,〈人形寺〉とも呼ばれて,春と秋に人形展が開かれる。10月10日には境内の人形塚で,使われなくなった人形を集めて人形供養も行われている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宝鏡寺」の意味・わかりやすい解説

宝鏡寺
ほうきょうじ

京都市上京(かみぎょう)区百々(どど)町にある禅宗系単立寺院。西山(せいざん)と号する。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。一般に百々御所(どどのごしょ)、人形寺(にんぎょうでら)とよばれる尼門跡(あまもんぜき)寺院。臨済宗円覚寺(えんがくじ)の開祖無学祖元(むがくそげん)の弟子、無外如大尼(むがいにょだいに)が開創した景愛寺(けいあいじ)の内にあった福尼寺を、応安(おうあん)年中(1368~75)光厳(こうごん)天皇皇女華林恵厳(えごん)禅尼が現在地に再興して、宝鏡寺と改称した。1644年(正保1)に後水尾(ごみずのお)天皇皇女理昌尼(りしょうに)王が入寺して以降、代々皇室から住職を迎えた。光格(こうかく)天皇の遺愛の人形や遊具をはじめ、歴代内親王の愛玩(あいがん)した人形が多数残されており、人形寺とよばれるようになった。毎年春と秋に人形展が開催される。

[水谷 類]

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