安江村(読み)やすえむら

日本歴史地名大系 「安江村」の解説

安江村
やすえむら

[現在地名]南濃町安江

山崎やまざき村の南、揖斐いび右岸に立地する。伊勢東街道が通り、揖斐川筋の船着場であったとみられる。元亀二年(一五七一)伊勢長島の一向一揆攻撃のおり、織田信長の家臣氏家卜全は当地付近で戦死し(新撰美濃志)、その供養塔が現存する。「信長公記」同四年九月二五日条に「大田の城小稲葉山に御陣取」とあるのは当地か。慶長郷帳海西かいさい郡内に屋すへ村とみえ、高一二〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では大垣藩領で、田四九石余・畑六九石余、山年貢二石。元禄郷帳でも同藩領。明和元年(一七六四)の村明細帳によれば、有高一四七石余のうち畑七四石余・反別六町三反余、田六四石余・反別四町三反余、人数一一四・家数二六、馬五・牛六、一〇〇石積船一艘、猟師鉄砲一挺があり、茶壺人足が大垣へ、堤抱人足が下境しもさかい村へそれぞれ出役した。

安江村
やすえむら

[現在地名]倉敷市安江・八王子町はちおうじちよう日吉町ひよせちよう

渋江しぶえ村の西、東高梁ひがしたかはし川の左岸堤防沿いにできた村。「備中誌」は元和四年(一六一八)の新開発とするが、それ以前に織豊期に開かれた本村があり、元和開発の新田が加わったと思われる。寛永備中国絵図に安井村とみえ高二七五石余、松山藩領。正保郷帳では安江村とあり幕府領、「水損少」とある。元禄郷帳では西江原藩領、正徳四年(一七一四)の備中一国重宝記では駿河田中藩領、文久元年(一八六一)の「備中村鑑」では幕府領と変遷する。

安江村
やすえむら

[現在地名]美浜町安江

みみ川の右岸、御岳おたけ山の西側に立地。北は宮代みやしろ村。野末村とも記し、当村と五十谷いさだに村・寄戸よりと村を合わせて小三こさんヶ村とよぶ。永禄六年(一五六三)の朝倉氏若狭攻めの際、国吉くによし城に籠城した地侍の中に、当村の戸島角右衛門の名がみえる(佐柿国吉城籠城記)。正保郷帳によれば田方一〇一石余・畠方四石余。

安江村
やすえむら

[現在地名]上越市安江・安江一―三丁目

松村まつむら新田の東、戸野目とのめ川右岸に位置。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「満多羅寺分御馬屋料所八すへ村 下」とみえ、本納一一二石五斗九升六合・縄高一五三石三斗九升六合・家一二軒・「四(二カ)人」。正保国絵図には安江村とあり高一〇六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報