安楽寺跡(読み)あんらくじあと

日本歴史地名大系 「安楽寺跡」の解説

安楽寺跡
あんらくじあと

[現在地名]堀金村大字烏川 岩原

岩原いわはら城跡直下にあって、石垣を巡らし、かつて城郭の一部をなしていた。曹洞宗で甲州清光せいこう寺末。

「信府統記」によると、往古臨済宗であったが、後に曹洞宗となり、開山は南浦玄(宗)清であるとしている。享保九年(一七二四)「住持記」(山口裕氏蔵)によると、南浦宗清は永正三年(一五〇六)一二月一八日没とされている。小県ちいさがた東部とうぶ定津じようしん院の「信州臨川山定津禅院年表」によると、南浦宗清は定津院二世悦堂宗穆禅師の弟子で、文明七年(一四七五)芦倉大宝寺で法系を嗣ぎ、甲州清光寺を開き、のち信州佐久郡城光院を開創、永正三年一二月一八日八二歳で死んだことが知られる。

安楽寺跡
あんらくじあと

[現在地名]熊本市万町二丁目

よろず町二丁目の南側にあった。西岡山明星院と号し、天台宗本尊は立像弥陀仏三尊。「国誌」によれば、天平一七年(七四五)行基の開基で、本尊も行基の作と伝える。初め天台宗で西岡山明星院法蓮寺と号し、その後弘安年間(一二七八―八八)宗旨を改め、承応年間(一二八八―九三)まで時宗の道場となった。明暦年間(一六五五―五八)に安楽院という僧が在住の時、再び天台宗に復し安楽寺と改めた。中興開山は大僧都政舜で、万治元年(一六五八)下野の日光山東照大権現を当寺に勧請し、鎮守惣社そうじや大明神宮一殿を鎮座した。

安楽寺跡
あんらくじあと

[現在地名]大和高田市大字根成柿

天満神社傍らの廃寺。堂一宇を残す。本尊は十一面観音。古くは浄土宗、のちに禅宗となり光雲こううん(現奈良県高取町)末寺。「高市郡寺院誌」によると、当地は菅原道真の別業の地で、元久元年(一二〇四)菅公三百年忌にあたり一宇の堂を創立、配所の太宰府の縁にちなんで安楽寺と号した。

安楽寺跡
あんらくじあと

[現在地名]奈良市邑地町

近世邑地中おおじなか村にあった真言宗寺院。近世は興福寺の末寺に属し、延享三年(一七四六)の「官務興福寺末寺帳」に、邑地上村の南性寺、邑地下村の東立寺とともにみえる。明治初年二寺をあわせたが、その後廃寺となる。「大和志」に「安楽寺在邑地村、有金鼓勒曰正和四年十一月岩峯山護法所鋳、一邑多巨岩就刻仏像五十有余、其他石像二躯一曰永正十年刻、一曰元亀四年七月造」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報