安徳村(読み)あんとくむら

日本歴史地名大系 「安徳村」の解説

安徳村
あんとくむら

[現在地名]島原浜の町はまのまち南安徳町みなみあんとくまち中安徳町なかあんとくまち鎌田町かまだまち平成町へいせいまち北安徳町きたあんとくまち梅園町うめぞのまち南崩山町みなみくえやままち大下町おおじもまち船泊町ふなどまりまち秩父ちちぶ浦町うらまち親和町しんわまち新湊しんみなと

島原村の南に位置し、東部は有明海に臨む。西方七面しちめん山・天狗てんぐ山などが連なる。地名は壇之だんの(現山口県下関市)で入水した安徳天皇の冠が流れ着いたので日吉村を改めて安徳にしたという所伝に関連するとも、中世に肥前国の御家人安徳氏の所領であったことに由来するともいう。西部に安徳氏が拠ったという安徳城跡があり、海岸近くに天皇宮がある。一五六三年(永禄六年)イエズス会のアルメイダ修道士が初めて口之津くちのつ(現口之津町)に赴く途次、有馬ありまの国主(有馬義貞)の義父(安徳直治)の領知であるアンドクAndocuに立寄ったところ、義父は切にデウスの教えを聴きたいと思っていることを予め伝えておき、一族とともに説教を聴いた。アンドクの道は両側とも一面に杉が立並んでおり、爽快で風光明媚な地であったという(フロイス「日本史」)

江戸時代は、島原藩領の南目筋に属する。慶長国絵図に「安徳」とみえ、高四五〇石余。寛永一四年(一六三七)の島原の乱の頃の家数一一五・人数六八六で、うち一揆百姓の家数二六・人数一八〇、一揆に参加しなかった百姓は味方百姓とされる(島原一揆松倉記)

安徳村
あんとくむら

[現在地名]那珂川町安徳

東隈ひがしぐま村の南、那珂川右岸にある。村名の由来は安徳天皇の行宮があった丘(御所原)の下に位置していたことによるという(続風土記)。小早川時代の指出前之帳では安徳村は田三八町八反余(分米五一七石余)・畠一七町六反余(分大豆一四一石余)。慶長七年(一六〇二)検地高は六八四石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高七〇三石余、家数二七・社一・寺一、人数一八一(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も七〇三石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数三五・人数一四七、牛二・馬二四(別本「続風土記附録」)地禄じろく天神(現天神社)風早かぜはや明神社、真宗明応みようおう(現浄土真宗本願寺派)がある(続風土記附録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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