姶良郷(読み)あいらごう

日本歴史地名大系 「姶良郷」の解説

姶良郷
あいらごう

肝属郡南西方に位置する外城。、東から北にかけては同郡高山こうやま郷、西から北にかけて同郡大姶良おおあいら郷・鹿屋かのや(現鹿屋市)、南から西にかけて大隅郡大根占おおねじめ郷に接する。中之郷に位置づけられ(列朝制度)鹿児島城下からの距離は古江ふるえ筋で一二里半、うち海路八里、福山ふくやま筋で陸路二四里半(「薩藩政要録」など)ふもと村・上名かんみよう村・下名しもんみよう村の三ヵ村で構成され、鹿児島藩直轄領。

天正五年(一五七七)肝付氏は本領高山以外の姶良などの所領を没収され(「箕輪伊賀覚書」旧記雑録など)、同八年には薩摩国阿多あた(現金峰町)へ転封となった。同年の肥後合戦陣立日記(旧記雑録)には、島津義久に従って出陣した大将のうちに姶良の伊地知伯耆守(重秀)の名がみえる。諸郷地頭系図には同年から同一五年頃の地頭として伊地知伯耆守重秀を記している。同一一年一〇月の肥後堅志田かたしだ(現熊本県中央町)攻めに姶良衆も加わっていた(「上井覚兼日記」同月七日条)。同一五年島津氏が豊臣秀吉に降ったのちは姶良を含む肝属郡は伊集院幸侃(忠棟)へ宛行われた(同年五月二五日「豊臣秀吉朱印状」島津家文書、同一九年九月二一日「伊集院忠恒証状」旧記雑録)

郷高(所惣高)は、正徳三年(一七一三)頃には六千六一三石余(藤井本「要用集抄」)延享(一七四四―四八)頃には六千八五四石余(三州御治世要覧)、文政七年(一八二四)には六千九三七石余(姶良名勝志)、同九年には七千四四石余(薩藩政要録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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