奥沢村(読み)おくさわむら

日本歴史地名大系 「奥沢村」の解説

奥沢村
おくさわむら

[現在地名]東秩父村奥沢

御堂みどう村の西に続く。つき川の左岸に開かれた小名形瀬かたせ半場はんば別所べつしよ青木あおき梅島うめじま関場せきば小野滝おんだき腰村こしむらの各集落からなり、玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。田園簿では田高二九石余・畑高五六石余、紙舟役永一貫二〇〇文が課せられ幕府領。「風土記稿」成立時には旗本深津領。天保郷帳では高一四四石余となり、幕末までに新田開発が進んでいるのが知られる。紙の生産が盛んであり、「風土記稿」には槻川の川原には楮を川水にさらすときの小屋、「カツサアシ小屋」が林立している様子が描かれている。

奥沢村
おくさわむら

[現在地名]小樽市奥沢一―五丁目・真栄まさかえ一―二丁目

明治七年(一八七四)より同三二年まで存続した町。芝居しばい町の西にあり、勝納かつない川が東流する。一八六五年(慶応元年)小樽内おたるない村の名主山田兵蔵が町並を形成していた金曇こんたん小路と奥沢の間の畑地に道路を開いた(小樽市史)。明治四年・同五年頃は現一―二丁目辺りは人家がまばらで、三―四丁目の一帯は自然林が残り、浄水場付近にはアイヌの家があったという。勝納川流域の人口増加により、同七年六月芝居町境より山際に移住した地が奥沢村として設置された(「開拓使日誌」同月七日条、「事業略記」)。名称は開拓使詰より広沢村として開設を上申したが、過って奥沢村で許可されたという。同七年三月、同八年当時広沢村とみえている(「開拓使公文録」「小樽郡小樽港」など)

奥沢村
おくさわむら

[現在地名]大田原市奥沢

中央をまき川が南流し、東は金丸かねまる丘陵、西側も丘陵地で、集落は川沿いの微高地にある。北は上奥沢村、南は鹿畑かばた村。天正一八年(一五九〇)の那須藤王丸資景知行目録(那須文書)に「下おく沢、上おく沢」とみえ一八七石五斗一升。初め那須藩領。慶安郷帳には奥沢村とみえ、鹿畑(鹿子畑)村とともに田一五九石余・畑一五七石余、幕府領。

奥沢村
おくさわむら

[現在地名]世田谷区奥沢一―三丁目・同五―八丁目・玉川田園調布たまがわでんえんちようふ二丁目・尾山台おやまだい三丁目・等々力とどろき二丁目

等々力村の飛地諏訪分すわぶんの北にあり、荏原えばら郡に属する。東は雪ヶ谷ゆきがや(現大田区)、西には寛文二年(一六六二)に当村から分離した奥沢新田村が広がる。天保(一八三〇―四四)以後新田村のほうを奥沢村とし、元の奥沢村を奥沢本村と記した(旧高旧領取調帳など)。村名は「おくざわ」ともよばれた。天正一九年(一五九一)渡辺勝は荏原郡などで知行地を与えられ(寛政重修諸家譜)、その子富次は寛永二年(一六二五)奥沢村五五石などの知行地の朱印を与えられた(記録御用所本古文書)

奥沢村
おくざわむら

[現在地名]新里村奥沢

新川につかわ村の北に位置。東部足尾あしお山地に連なる丘陵地で、その峰を越えると渡良瀬川の谷である。地名は永禄一〇年(一五六七)の由良成繁事書案(由良文書)にみえる。村名は「寛文朱印留」にみえ、前橋藩領。寛文郷帳によると田方二四石余・畑方四五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報