奥武山(読み)おーのやま

日本歴史地名大系 「奥武山」の解説

奥武山
おーのやま

[現在地名]那覇市奥武山町おうのやまちよう

那覇川中の小島。奥之山・奥山などとも記された。北西御物おもの城、北は硫黄いおう城から仲島なかしま、東は真和志まーじ間切古波蔵くふあんぐわー村のアカバヌキに至り、南西から南にかけて垣花の落平かちぬはなのうていんだ水、豊見城とみぐすくグスク、ガーナームイの小島と向合っていた。屋慶名政賀の首里那覇全景図屏風(沖縄文化の遺宝)や「沖縄志」の那覇港図などに描かれている。間切集成図には奥武之山とあり、周辺に小島も描かれる。島中、松が生茂り、風光明媚の地であったため、しばしば御仮屋守や問役が薩摩鹿児島藩の在番奉行のお供で出かけていた(親見世日記)。また麻疹など流行病が猖獗の時、船の乗員を那覇に登岸させず、病の有無を確認するまで奥武山にしばらく留置いたりした(親見世日記・評定所文書など)。順治一三年(一六五六)から奥之山、越来ぐいーく間切池原いちばる(現沖縄市)で鳩目銭(通称当間銭)鋳造した(琉球国由来記)。奥武山公園内に鋳造を行った当間家の墓碑がある。

一九〇三年(明治三六年)渡地わたんじ硫黄城近くから北明治橋が島の北側に架けられ、同所から南明治橋が垣花側に架けられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報