那覇(読み)ナハ

デジタル大辞泉 「那覇」の意味・読み・例文・類語

なは【那覇】

沖縄県、沖縄島南西部の市。県庁所在地琉球王都の首里しゅりの外港として発展。第二次大戦後は、昭和47年(1972)の沖縄返還までアメリカ軍政の中心地。壺屋焼紅型びんがたなどを特産。昭和29年(1954)首里市を、昭和32年(1957)真和志まわし市を編入。人口31.6万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「那覇」の意味・読み・例文・類語

なは【那覇】

沖縄県沖縄島南部の地名。県庁所在地。東シナ海に面する。琉球王国の首都首里の外港として発展。慶長一四年(一六〇九)琉球が薩摩藩の属国となり、対中国貿易のみに限定されて衰えた。明治一二年(一八七九)沖縄県の設置とともに県庁所在地となる。大正一〇年(一九二一)市制。第二次世界大戦後は琉球政府・アメリカ民政府の所在地となり、昭和二九年(一九五四)には首里市を合併。同四七年(一九七二)日本復帰とともに沖縄県の県庁所在地となる。泡盛(あわもり)・紅型(びんがた)・琉球がすりなどを特産。那覇港那覇空港などがあり、玉陵(たまおどん)・波上宮・崇元寺跡・園比屋武御嶽(そのひやんうたき)守礼門などがある。

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日本歴史地名大系 「那覇」の解説

那覇
なーふあ

沖縄島南部の西海岸に位置し、おおよそ北は安里あさと川、東は久茂地くもじ川、南は国場こくば川によって画され、西は東シナ海に面する。東は久米村くにんだ、北は潟原かたばるを挟みとうまい村。方音ではナーファ。史料には那覇四町ともみえる。もともとの那覇は安里川・久茂地川・国場川から運ばれた土砂が、海岸の入江に堆積した小島の一角にあり、国場川河口に開けた港町であった。那覇港の発展に伴い町も成長し、王都首里に次ぐ琉球王国の中心都市となっていった。那覇の呼称については「琉球国由来記」「遺老説伝」に伝承が記されている。呉姓我那覇の家に怪石があり、形が野菰(俗に奈波=ナバ、茸のこと)に似ていた。やがて村ができ、奈波というようになり、のち奈波を那覇に改字したという。また由来記に「琉球神道記」にいうとして「那覇ハ阿那婆達多龍王所居成ベシ」とある。「海東諸国紀」に「那波」とあって、一五―一六世紀にはナバと唱えられていた可能性が高い。伊波普猷はナバについて漁場(ナバ)説を唱え通説となっている。しかし那覇・ナハのつく地名はほかに西原にしばる間切の小那覇うなふあ(現西原町)豊見城とうみぐすく間切の我那覇がなふあ(現豊見城市)南風原ふえーばる間切の与那覇ゆなふあ(現南風原町)読谷山ゆんたんじや間切の瀬名波しなは(現読谷村)、久米島の登武那覇とんなはグスクなどがある。小那覇・瀬名覇は海に面した村で漁場をもっていたと考えられるが、ほかは海に面しておらず、また好漁場を有する地が必ずしも那覇を地名としているわけでもない。ナバ=漁場説も一仮説にとどまるだろう。

〔古琉球〕

「おもろさうし」巻一三の八に「一 しより おわる てたこか(首里におわす日子〔王〕が)/うきしまは けらへてゝ(浮島を造営されて)/たう なはん よりやう なはとまり(唐・南蛮〔の船が〕寄り合う那覇泊)/又 くすく おわる てたこか(ぐすく〔首里城〕におられる日子が)」とみえ、四方を海や川で画された入江の小島は、「うきしま」と称されていた。那覇はその一角の漁村にすぎなかったと考えられている。その那覇が大きく発展を遂げていった背景には、王国の港(国津)となったためと考えられる。その時期は英祖・察度の浦添政権の時代とする説、察度が首里遷都をした後とする説(察度の遷都説には異論もある)、首里を拠点とした尚巴志政権の時代になってからとする説など諸説ある。しかし遅くとも尚巴志時代には王都首里と那覇港の関係は成立していたと考えられる。前掲のオモロに「たう なはん よりやう なはとまり」とあるのは第一尚氏の尚金福が一四五二年に長虹ちようこう堤を造営したことを謡ったものと解する説もあり、那覇の町が整備されて、港に唐や南蛮の船が寄集まっている様子を謡ったものとされている。

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改訂新版 世界大百科事典 「那覇」の意味・わかりやすい解説

那覇[市] (なは)

沖縄県沖縄島(本島)南西部,東シナ海に面する県庁所在都市。1921年市制。54年首里(しゅり)市(1921市制),小禄村,57年真和志(まわし)市(1953市制)を編入。人口31万5954(2010)。市の中心部はかつて南の国場(こくば)川と北の安里(あさと)川に挟まれた島で浮島とも呼ばれていたが,両川の三角州が発達し,埋立ても進んで現在ではその面影はない。那覇は国場川河口にあって琉球王朝時代から首都首里の外港として栄えた那覇港と,安里川河口にあって離島航路の船の停泊地であった泊港の港町から発展した。1879年沖縄県が設置されて県庁所在地となり,政治,経済,文化,交通の中心は首里から那覇へ移動した。第2次世界大戦の戦災をうけて市街地は灰燼に帰し,戦前那覇を中心に通じていた沖縄県営鉄道(1914創業,全延長48km)も破壊され,以後,交通は道路のみとなった。戦後,県がアメリカ軍の統治下に置かれたため,旧市街地は立入禁止が続き,市の復興は1945年11月郊外の壺屋地区に陶器や瓦製造を目的とした103名の居住が許可されて以降始まった。その後疎開地からの帰還者や,本土,海外からの復員者の流入によって人口集中が活発となり,しだいに市街地が形成されていった。人口増加に伴って平和通り,神里原(かんざとばる)付近に露天市が立ち,やがて本格的な店舗に建てかえられた。かつて市郊外の田園地帯であった国際通りは,1950年代になって急速に近代的な商店街の形成が進み,〈奇跡の1マイル〉といわれた。

 市内には沖縄開発庁(現,内閣府)沖縄総合事務局をはじめとする国の出先機関や企業の本社・支社(店)が集中して県の中心地をなすが,消費都市的性格が強く,産業別就業人口の割合(1995)では第3次産業が83%を占める。第2次産業人口は15%を占めるにすぎず,工業は伝統工業の陶器,紅型(びんがた),漆器,泡盛の製造など小規模なものが多い。北東部の台地上の首里周辺は戦災で破壊されたが,その後復元・修理されたものもあり,琉球王朝時代の面影がうかがえる。首里城,円覚寺跡,玉陵(たまうどん),末吉宮(すえよしぐう)跡(いずれも史跡)のほか,守礼門,園比屋武御嶽(そのひやんうたき)石門などがある。首里城の跡には国立琉球大学(1950創設)6学部が置かれていたが,西原町に移転し,そこに1992年本土復帰20周年を記念して首里城が復元され,首里城公園として整備されている。1972年の施政権返還後,那覇港,泊港,安謝(あじゃ)港の3港は一元化されて重要港湾の那覇港となった。市街地の南西には那覇空港があり,本土や離島への定期航空路のほか国際線も通じる。市街地の北側に位置する広大な天久(あめく)米軍住宅跡地には新都心の建設が進み,また,那覇都市圏の交通整備として沖縄都市モノレールの建設事業も進められた(2003年那覇空港~首里間が開業)。沖縄自動車道那覇インターチェンジがある。沖縄観光の拠点として,ホテル,土産品店,レストランなど観光関連事業所が多い。市内には首里城周辺の史跡のほか,識名園や中国式庭園の福州園がある。伝統行事として,爬竜船競漕の那覇ハーリー,那覇大網挽などがある。
執筆者:

港を中心に発展した那覇は,とくに尚巴志が1429年に三山(さんざん)(三つの小国家)を平定して首里を拠点とする統一王朝(琉球王国)を樹立すると,その交易港,要津として急速に発展していった。交易や属島統治の機関が置かれ,また,中国から移住してきた人々が居留区(久米村)をつくり,外国商人が来航するなど国際港として大いににぎわった。近世に入ると〈那覇四町(よまち)〉の名で呼ばれた。西町,東町,泉崎町,若狭町の総称で,狭い意味での那覇はこの4町に限られる。しかし,隣接する久米村,泊を含めて広義に那覇をとらえることが多い。首里に次ぐ都市として繁栄し,1729年の史料では人口約1万2000人(琉球全体では約17万4000人),その約4割は士身分,残りが町方百姓であった。海外および琉球内の諸島と結ぶ海運の要衝として発展する一方,薩摩の琉球在番奉行所が置かれるなど,政治的にも重要な位置を占めるようになった。1879年3月,明治政府は王国体制を廃して沖縄県の設置を断行(琉球処分),県庁所在地を那覇に決めた。
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デジタル大辞泉プラス 「那覇」の解説

那覇

沖縄県那覇市にある、琉球料理の料亭。1949年開業。

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