大鋸町(読み)だいぎりまち

日本歴史地名大系 「大鋸町」の解説

大鋸町
だいぎりまち

[現在地名]藤沢市大鋸・大鋸一―三丁目・西富にしとみ一―二丁目・藤が岡ふじがおか一―三丁目

さかい川左岸に位置し、鎌倉郡に属した。西は境川を隔てて藤沢宿の大久保おおくぼ町に対し、北は東俣野ひがしまたの(現横浜市戸塚区)に接する。東を東海道が通り、西南からは鎌倉道が通じる。地名大鋸引を職とする者の居住地にちなむ。

弘治元年(一五五五)一二月二三日の「藤沢大鋸町」森弥五郎・木工助に宛てた北条家朱印状(県史三)に「致伝馬候裏屋敷六間、年貢壱貫弐百文、従当年返被下候」とある。またこの両人に宛てた翌二年五月二八日の北条綱成書状(同書)によると、森家は「藤沢之客(寮)廿五人之触口役」を円阿弥以来三代にわたり務めている。客寮は清浄光しようじようこう寺に属し、半僧半俗で寺用に携わったが、綱成は森家が引続き触口役を務めることを保証するとともに、小田原北条氏への奉公が肝要であると説いている。

大鋸町
おがちよう

[現在地名]中央区京橋一丁目

新肴場三郎兵衛しんさかなばさぶろべえ請負地の南にあり、間に東西の道が通る。南は正木まさき町・南鞘みなみさや町、東は本材木ほんざいもく町五丁目、西は南伝馬みなみでんま町一丁目。国役町。職人町で、町名は大鋸職人が集住していたことに由来し、「おおかがりちょう」を縮めて「おがちょう」となった。寛永江戸図では北は中橋なかばし入堀(紅葉川)に面し、「おが町」「同二丁メ」とある。安永三年小間附町鑑では京間一〇二間。うち八六間は国役として木挽役金を負担し、一六間は絵師狩野永徳(高信)拝領地で公役金を納めた。名主は小林茂兵衛(同小間附町鑑、宝暦七年万世町鑑)

大鋸町
おおがまち

[現在地名]静岡市大鋸町

駿府城下の縦筋(縦町)第七行の両側町。南は西寺にしてら町、北は明屋敷、東は上大工かみだいく(以上、町方絵図)。町名は木挽を業とする者の居住に由来し、慶長(一五九六―一六一五)の町割の際に一部が新通川越しんとおりかわごし町に移住したという(駿河記)。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は西寺町・大鋸町で丁頭家一・本家四とあるが、これは当町の数値であろう。

大鋸町
おおがまち

[現在地名]上越市なか町六丁目

本杉鍛冶もとすぎかじ町の北に続く西裏町にしうらまち通の両側町。高田城築城の頃木挽職人が多く住したことからこの名がある(頸城郡誌稿)。天和期(一六八一―八四)の調では役を負担する町で屋敷数三五、名主一人(同書)。正徳年間(一七一一―一六)の高田町各町記録(榊原家文書)によると井戸数五六、紺屋二人・井戸掘一人がいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大鋸町の言及

【藤沢[市]】より

…宿駅の成立は1601年(慶長6)。宿場町は,清浄光寺の門前集落としての性格が濃い大鋸(だいぎり)町をはじめとして,大久保町,坂戸町の3町からなっている。この3町のうち坂戸町が他の2町に比べ広いことが目だつ。…

※「大鋸町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」