大矢村(読み)おおやむら

日本歴史地名大系 「大矢村」の解説

大矢村
おおやむら

[現在地名]美並村大原おおはら 大矢

長良川左岸にあり、南は勝原かつぱら村。武儀むぎ雁曾礼がんぞれ(現武儀町)との間に板山いたやま口番所があった。康永三年(一三四四)九月八日の足利将軍家御教書(服部玄三氏所蔵文書)に「美濃国大谷郷」とあり、当地をさすかもしれない。

慶長郷帳では大谷村とあり、高三八八石余。正保郷帳では田方二〇三石余・畑方二〇八石余。正保国絵図に番所が描かれている。

大矢村
おおやむら

[現在地名]稲沢市大矢町

北は北島きたじま村に接し、大江おおえ川が村の中央を南北に流れ、この川の東側に人家が集中しており、南大矢みなみおおや・北大矢に分れている(天保村絵図、徇行記)。弘安五年(一二八二)浄金剛じようこんごう院領としての千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)によると、鈴裳すずもく名田畑の内に「中嶋郡南条大屋村二反」とみえる。天正末頃は織田信雄の家臣道連の知行地であった(織田信雄分限帳)

概高一千三三一石余で、一千二六四石余は藩士一九人の給知。田地三三町五反六畝余・畑地四七町二畝余。他村の入小作がなく、村中で地割をし、「近郷ヨリモ地高ナル所ニテ井カヽリアシト也」(徇行記)という。

大矢村
おおやむら

[現在地名]三和町大矢

小田おだ川の谷沿いに集落が点在。東は井関いせき村、西は小畠こばたけ村。元和五年(一六一九)の備後国知行帳には「大屋村」とみえ高一二八石余、「寛文朱印留」でも同表記、元禄一三年(一七〇〇)の備前検地帳以降大矢村(高一四九石余)となる。福山藩水野氏断絶後は幕府領、嘉永六年(一八五三)福山藩主阿部氏の加増地となる。この時は一四九石余の元高のほか五升二合の新田高が付加されている。小字名は当地の動脈である小田川を基準に、上大矢・下大矢、川南かわみなみ川北かわきたなど自然条件によるものが多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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