大熊村(読み)でつくまむら

日本歴史地名大系 「大熊村」の解説

大熊村
でつくまむら

[現在地名]名瀬市大熊だいくま鳩浜町はとはまちよう

浦上うらがん村の北西に位置し、集落は深い入江に臨む。「南島雑話」によれば、当村から阿木名あぎな(現龍郷町)へ越える坂は難所であるという。また伊津部いちぶ村との間にある島として屋喜屋やきや(現山羊島か)が記され、山羊を放牧する島で、周り三町という。デックマまたはデクマともいう。大熊でつくま湊があり、名瀬の有力な湊として機能した。

万暦一五年(一五八七)一〇月四日の琉球辞令書(大熊ノロ文書)に「なせまきりのたいくまのろ」とみえ、当地のノロ職に「もとののろのめい」、つまり元のノロの姪である「まくも」が任じられている。「まくも」が「まくもい」であれば、「ま」も「くもい」も敬称である。当地の松岡家は大屋子を歴任した家で喜志統と称される。嬉姓喜志統親方系譜(奄美大島諸家系譜集)によれば、嘉靖年間(一五二二―六七)の初め喜志統は笠里かさん間切(笠利間切)大屋子職に任じられ、同間切の屋仁やん(現笠利町)に入部したという。二代大屋子は幼少のとき琉球王府に渡って城内で仕え、のち喜世大屋子に任じられ、嘉靖四〇年に笠里間切の大首里屋子に転任している。

大熊村
おおくまむら

[現在地名]緑区大熊町・折本おりもと

北・西は丘陵がちで新羽につぱ(現港北区)・折本村に続く。東は新羽村、南部は鶴見つるみ川に近く、平地となって川向かわむこう村に接する。小田原衆所領役帳に福田「拾一貫十四文 小机大熊之内」とある。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)に「武蔵国都筑こつくへ之庄内」に「大熊」とみえる。

近世は幕府直轄領から元和二年(一六一六)旗本稲富領と寛永一〇年(一六三三)旗本小長谷領の二給。寛永三年に検地が実施された(風土記稿)。田園簿では田一六〇石余、畑四三石余。

大熊村
おおぐまむら

[現在地名]津幡町大熊おんま

津幡川上流吉倉よしくら川の源流地域、甲斐崎かいざき(一八九メートル)の西麓斜面に位置。北西は小熊こぐま村。仮名付帳などは「ヲヽグマ」と訓ずる。正保郷帳では高三〇四石余、田方八町一反・畑方一二町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三四六石、免四ツ八歩、小物成は山役二一三匁・蝋役三匁・漆役三匁・綿役一匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数一三(高免付給人帳)。慶長年間(一五九六―一六一五)以後代々十村を勤めた兵右衛門家は甲斐国の出身と伝え、元禄一四年(一七〇一)六代目が能瀬のせ村へ引越した(「由緒等記帳控」渡辺文書)

大熊村
おおぐまむら

[現在地名]諏訪市湖南こなみ 大熊

守屋もりや山の北麓にあり、南東は諏訪大社上社本宮のある神宮寺じぐじ村、北西は南真志野みなみまじの村に接して、南北に長い集落である。守屋山から流出する小河川が土砂を大量に運ぶため、天井川の現象がみられる。

承久元年(一二一九)八月の「諏方十郷日記」(守矢文書)に「大熊廿八丁廿間」とみえている。嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」には「大熊二七郷御社宮神大天白十二所権現」とある。

慶長一八年(一六一三)の信州諏訪郡高辻には「高四百弐拾八石九斗 大熊郷」とあり、享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)でも同高で、家数は一一五軒とある。

大熊村
おおくまむら

[現在地名]中野市大字三ッ和みつわ

北東南は山地に囲まれ、西方は延徳平えんとくだいらに面した山懐の集落で、南は桜沢さくらさわ、北は北大熊きたおおくま村に隣接している。

初出は嘉暦四年(一三二九)三月の諏訪社上社の頭役結番に関する記録(「鎌倉幕府下知状案」守矢文書)で、八番五月会分として「(流)鏑馬、東条庄内南大熊地頭等云々」とある。

また同年に大熊が玉垣一間半所役の記事がみえる(「大宮御造栄之目録」諏訪大社上社文書)。寛正二年(一四六一)四月、地頭大熊出羽守高家が同社花会明年の頭役にあてられてより以後、花会・五月会・御射山の頭役を勤めているが、寛正六年以後は、高梨氏が地頭になっている。天正七年(一五七九)二月八日、武田勝頼は弥彦社祝等をして大熊郷などに筑摩郡小野おの社の造営を勤めさせている(「武田勝頼朱印状」小野文書)

大熊村
おおぐまむら

[現在地名]赤碕町高岡たかおか

今地いまじ村の南、勝田かつた川・矢筈やはず川の合流点付近に位置する。地名は村人が熊野権現を尊崇してきたことによるという(以西村郷土誌)。拝領高は一三五石余、本免は五ツ四分。藪役銀一匁五分を課されており(藩史)、津田氏の給地であった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一二八石余、竈数一三。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一四三石余、竈数二一。明治一〇年(一八七七)国真くにざね村と合併して高岡村となった。大熊神社がある。かつて産土神は山川やまがわ村の熊野権現(現在の船上神社奥院)であったが、社参に支障があるため地内に霊岩を設け椋の木を植えて崇拝してきたところ、寛正(一四六〇―六六)の頃に気候の異変や悪疫が流行したので、霊岩の側に小祠を造って三宝荒神として祭祀したという。

大熊村
おおくまむら

[現在地名]犀川町大熊

山鹿やまが村の南東にあり、喜多良きたら川中流の小平野に五集落が散在している。正安元年(一二九九)一〇月五日の鎮西御教書(東妙寺文書/鎌倉遺文二七)によると、肥前国神崎かんざき(現佐賀県神埼郡)の田所季国の娘婿であった豊前国大隈おおくま村地頭輔法橋安種が神崎庄櫛田宮舞・装束免田をめぐって同庄住人舞師能弘と相論し、勝訴している。元和八年人畜改帳によると御蔵納分の高七一七石余、家数六一・人数一一七(うち庄屋一・百姓一〇・名子一三)、牛一二・馬六。寛永九年(一六三二)の高七二〇石余(「仲津郡寛永六年七年八年三ヶ年之御免帳」永青文庫)

大熊村
おおくまむら

[現在地名]魚津市大熊

早月はやつき川とかど川に挟まれた山地にあり、北は鹿熊かくま村。元和五年(一六一九)の三介組借米渡口覚(三辺家文書)によると、「金山之内大熊村」は七俵を滑川なめりかわで請取ることとされている。正保郷帳では高五一石余、田方一反・畑方三町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高五七石・免三ツ八歩、小物成は山役五一匁・蝋役三匁(三箇国高物成帳)

大熊村
おおくまむら

[現在地名]篠山市大熊

沢田さわだ村の北に位置する。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「北之庄内大熊村」とみえ、高九〇石余。なお北庄は三箇北さんかきた庄のこと。正保郷帳では田高六九石余・畠高二九石余。「丹波志」では北庄のうちで、高一〇〇石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では新庄組で、家数二〇・人数九三。

大熊村
おおくまむら

[現在地名]糸田町大熊

北流する中元寺ちゆうがんじ川東岸に位置し、西は糸田村。元和八年人畜改帳に村名はみえないが、正保国絵図にみえる。宝永七年(一七一〇)には高一七六石余、田五町一反余・畠一〇町八反余、竈数一五・人数七四、牛馬八(「村々万覚書」瓜生文書)。嘉永五年(一八五二)には竈数一三(うち本百姓一二)・人数五七(うち紺屋一・商人二・郷筒一・奉公人二)であった(「金田手永人別改寄帳」六角家文書)

大熊村
おおくまむら

[現在地名]大宇陀町大字大熊

平尾ひらお村の南方に立地。「大乗院雑事記」寛正二年(一四六一)一二月一九日条に「宇多郡大熊四郷之年貢、自小川方百疋分致其沙汰給人等加戒支配云々」とあり、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)には「大(熊)四所 宇多郡」とみえる。寛永郷帳には「大熊野村」と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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