大江郷(読み)おおえごう

日本歴史地名大系 「大江郷」の解説

大江郷
おおえごう

和名抄」は刊本に「於保江」と訓ず。郷名の初出文書は、長寛二年(一一六四)二月二〇日付秦吉成作手田売券(三鈷寺文書)である。

<資料は省略されています>

これにより、「巨勢本里」の存在や秦氏が相伝の作手職を持っていたことが確認できる。なお、史料の性格に問題はあるが、「行基年譜」に、大江布施屋が「乙訓郡大江里」に建立されたとある。

大江の地名は「万葉集」巻一二に初見する。

<資料は省略されています>

とある大江山(現西京区)は大江郷内にあり、山城丹波の国境にあたり、その丹波山地にかかるおいさか(現西京区)は大江ノ坂の転訛であろう。

大江郷
おおえごう

「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「会津地名考」は河沼郡大江村(現会津坂下町)を遺称地とする。「日本地理志料」も河沼郡大江村を遺称地として、坂下ばんげ町・羽林はばやし(現同上)以東の二〇余村にわたるとみる。「大日本地名辞書」は「河沼郡に存す、若宮村坂下町・新館村・船杉村・川西村及び塔寺」をあげる。

大江郷
おおえごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。遺称地名として戦国期の大江村、近世の大江村があり、現瀬高せたか町大江に比定される。なお「大日本地名辞書」は「今詳ならず、小川村に大江の大字存すれど、地域大神と重複すれば、此には非ず」と記し、郷域が大神おおが郷と重複することを指摘するが、明治九年(一八七六)に三ヵ村合併の際に古代の郷名にちなんで付けられたのが太神おおが(現瀬高町)である。

大江郷
おおえごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。年月日欠の山階寺僧正基童子貢進解断簡(正倉院文書)に「土師麻呂年拾捌因幡国益上郡大江里戸主土師首麻呂之戸口」とある。「延喜式」神名帳記載の「大江オホエノ神社」に比定される大江神社のある現船岡ふなおか橋本はしもとを含む、同町の大江川流域一帯に比定される。

大江郷
おおえごう

「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「大日本地名辞書」は現相馬郡鹿島かしま町の八沢やさわ(八十浦・柚木浦とも)かとする。行方郡と宇多うだ郡の境にあって浅く海水が湾入し、東西三〇町・南北八町ばかりあったが、明治末から昭和初期に干拓が進められ水田化した。

大江郷
おおえごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。東急本に「於保江」の訓がある。「遠江国風土記伝」は平田ひらた東萩間ひがしはぎま・西萩間などの一五村、すなわち現相良さがら町大江から同町東萩間・西萩間など萩間川中流にかけての谷沿いの地域とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報