長岡京(読み)ながおかきょう

精選版 日本国語大辞典 「長岡京」の意味・読み・例文・類語

ながおか‐きょう ながをかキャウ【長岡京】

[一] 桓武天皇が延暦三年(七八四)京都府長岡京市から向日市大山崎町・京都市にまたがる一帯の地に造営した都。造長岡宮使藤原種継の暗殺、廃太子早良親王の非業の死などにより、同一三年平安京に遷都。長岡のみやこ
[二] 京都府南部の地名。長岡京が造営された地で、古墳が多い。乙訓寺(おとくにでら)がある。乙訓郡長岡町が、昭和四七年(一九七二)市制施行とともに改称。

ながおか‐の‐みやこ ながをか‥【長岡京】

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デジタル大辞泉 「長岡京」の意味・読み・例文・類語

ながおか‐きょう〔ながをかキヤウ〕【長岡京】

京都府向日むこう市・長岡京市付近にあった桓武天皇造営の都。延暦3年(784)に平城京からここに移った。同13年(794)平安京に遷都。
京都府南部の市。京都・大阪の中間にあり、宅地化が著しい。もとの地で、古墳が多く、長岡天満宮光明寺などがある。人口8.0万(2010)。

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日本歴史地名大系 「長岡京」の解説

長岡京
ながおかきよう

桓武天皇によって建設された都城。大内裏は現向日市にあり、南方現乙訓おとくに大山崎おおやまざき円明寺えんみようじ辺りまで条坊が整備、あるいは構想されていた。

奈良時代末期の政治の行詰りは、称徳天皇の死によって転機を迎えた。道鏡が失脚し、代わって藤原氏式家を中心とする新官人層が台頭、称徳天皇によって皇統が絶えた天武天皇系に代わって、天智天皇系から光仁天皇・桓武天皇が即位し、人心を一新し律令体制を再建すべく遷都がなされた。その場所に乙訓郡地方が選ばれた理由は、延暦七年(七八八)の詔には「水陸有便、建都長岡」というが、それだけでは説明できない。この時期、新官人層と並んで渡来人系氏族の台頭も著しく、桓武天皇の母は百済系渡来人の子孫和乙継の女高野新笠で、大枝おおえ地方(現京都市西京区)で成長した。藤原氏式家の清成は主計頭として朝廷の財政をつかさどった秦朝文の女を妻とし、種継はその子である。北家小黒麻呂の妻は秦嶋麻呂の女。南家継縄の妻も百済系渡来人の子孫。新官人層は渡来人の技術や経済力に着目して積極的に結び、大和地方の古い豪族との因縁を断って律令体制の再編を目指した。とりわけ山城地方に勢力をもつ渡来人系氏族との関係の深さが、山城への遷都を断行させたといえよう。

遷都は延暦元年閏正月に起こった氷上川継事件を機に決断され、乙訓郡の地に場所が決定されると、同三年五月一六日、小黒麻呂、種継、大宰府での築城や造東大寺長官など土木工事の経験豊富な佐伯今毛人、陸奥鎮守府将軍の経験者坂上苅田麻呂、陰陽助船田口ら八人に、遷都のため長岡村を調査させた。その報告に基づき、種継・今毛人ら一五人を造長岡宮使に任命、造営に着手した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長岡京」の意味・わかりやすい解説

長岡京
ながおかきょう

平安時代初期、山城(やましろ)国乙訓(おとくに)郡に置かれた都城。現在の京都府向日(むこう)市・長岡京市付近にあたる。桓武(かんむ)天皇は784年(延暦3)11月11日に平城京からこの地に遷都し、以来794年10月22日に平安京に遷(うつ)るまでここに都した。政治の中心である宮城は向日市に、経済の中心である東西市(とうざいいち)は長岡京市に、交通の中心であり都の玄関にあたる山崎津(やまざきのつ)は大山崎町に、淀津(よどのつ)は京都市にあった。南北は十条、東西は左右各四坊計八坊あったと考えられているが、他の意見もある(平安京は南北9.5条、平城京の左京は9条、右京は9.5条分あった)。長岡京が南北に長いのは、南東部の淀付近が低湿地であり、南西部が山であった関係であろう。北部の宮の一部も丘のため建物は建てられていなかった。

 奈良が廃都になったのは、仏教勢力からの絶縁、人心一新が理由とされるが、人口が増えすぎ、物資の輸送に有利な水運の便を欠いたのが最大の原因であった。これに対し、長岡京の山崎津や淀津には、当時大洋や瀬戸内海を航行する船がそのまま遡航(そこう)してくることができた。また天皇の信任の厚い藤原種継(たねつぐ)の母や藤原小黒麻呂(こぐろまろ)の妻の実家は、山背(やましろ)(山城)の葛野(かどの)郡や乙訓郡に居住する裕福な渡来系氏族秦(はた)氏で、この一族が遷都については協力を申し出て、誘致に努力したらしい。しかし、785年には遷都の首唱者で造長岡宮使の藤原種継が暗殺され、これに関係したとされる早良(さわら)親王の廃太子事件が起きた。この時代、大規模な蝦夷(えみし)征討事業も行われたが、その経済的負担も大きかった。ところが完成近かった都も洪水や政争が続き、早良親王の怨霊(おんりょう)に悩まされた桓武天皇によって、わずか10年で平安京へ都を遷すこととなった。

中山修一

発掘調査

長岡京址(し)の発掘は、1954年(昭和29)末以来84年末現在で、調査回数はすでに400回を超え、年間2億円近い発掘調査費を使って何か所かにおいて発掘と整理が行われている。発掘が進むにしたがって、最初考えた北京極(きょうごく)の地より2本北に北京極大路(おおじ)が考えられるようになり、町割は平安京型よりは平城京型に近く、南北は三都のなかでいちばん長いが東西幅は平安京より狭いことが明らかになった。

 長岡宮域にあたる向日神社付近は古墳も破壊されずそのままに残っているほかは、どこの発掘でも柱穴や礎石下の根石をみいだすことができる。なかには10年の間にすでに建て直されている所も何か所かみられ、ほぼ全域に工事は進められていたことがわかった。京域では東西南北の大路小路もほぼ完成し、民家も約1万棟は建っており、人口も5万人はある田園都市的な整頓(せいとん)された美しい街であったと推定されるようになった。

 木簡の出土数も1000枚を超え、墨書土器とともに重要な資料を提供している。出土瓦(かわら)には、藤原京・平城京・難波(なにわ)京・保良(ほら)宮瓦と長岡京固有の瓦とがあり、瓦や礎石、柱などはその後そっくり平安京へ運ばれている。

[中山修一]

『高橋徹他著『長岡京発掘』(1968・日本放送出版協会)』『中山修一他著『長岡京内と外』(1978・乙訓書房)』『上田正昭編『向日市史』上下(1983、85・向日市)』

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改訂新版 世界大百科事典 「長岡京」の意味・わかりやすい解説

長岡京 (ながおかきょう)

784年(延暦3)から794年まで,山城国乙訓(おとくに)郡(現在の京都府向日(むこう)市,長岡京市,京都市,乙訓郡大山崎町)にあった古代の都城。

 奈良時代末期の781年(天応1),父光仁天皇からはからずも帝位をゆずられた山部親王(桓武天皇)は,旧都平城京を捨てて新都を建設し,人心を一新して律令体制をたてなおそうとした。それは,平城京時代70年間に強大になった寺院勢力などの旧弊を断ち切り,新しい政治を行うことをめざすことでもあった。この新しい都づくりの土地として,大和から遠く離れた長岡京が選ばれたのは,人口が10万~20万人という大都市にふくれあがった平城京では,それだけの人口を支える物資を確保するための輸送が不便となり,水陸の便のよい土地が選ばれたためとする説,桓武天皇の母高野新笠(たかののにいがさ)の実家である土師(はじ)氏の居地であったためとする説,桓武天皇が深く信頼を寄せた寵臣藤原種継や藤原小黒麻呂の母方や妻の実家の秦氏の居地であったためとする説などの理由が考えられている。

 長岡京は,山背国乙訓郡長岡村の地が選ばれたことから,長岡京と名づけられ,宮殿(長岡宮)の中心部分は向日市鶏冠井(かいで)町等にある。1955年以来発掘調査が行われ,長岡京の実態がしだいに明らかにされてきた。昭和30年代には,宮殿内の儀式を行う中心部分である大極殿をはじめとする朝堂院の一帯が明らかにされ,昭和40年代には天皇の住居にあたる内裏の一画が明らかにされてきた。昭和50年代以降は,長岡京全域への調査が進められ,長岡京の都市計画の街路(条坊)のようすも明らかにされた。その結果,長岡京は平安京へ移るまでの準備期間の仮の都としてつくられたものではなく,本格的な都づくりが行われ,主要部の造営はほとんど完成していたことが明らかとなった。さらに,朝堂院が縮小され,内裏と朝堂院が分離し,宮殿内の構造や都市としての町割りの構造などにいろいろ新しい要素が取り入れられ,新しい都づくりが意欲的に進められていたことも明らかになってきた。このため,長岡京が10年間で廃止され,平安京へ移されることになったのは,仮の都であったからではなく,突然やむをえない事情が起こったためと考えられる。その原因として,怨霊によるものとする説と洪水によるものとする説の二つがある。怨霊によるものとする説は,785年,長岡京の造営を中心的に進めた造営長官藤原種継が暗殺され,その容疑者として皇太子早良(さわら)親王が捕らえられ,無実を主張して憤死した事件以後,桓武天皇の周辺に不吉なことが相次いで起こり,その原因が早良親王の怨霊によるものと信じられたためであるとするものである。洪水によるものとする説は,長岡京が都としての立地が悪く,たび重なる洪水,とくに792年の長岡京左京部分が冠水した大洪水により,桓武天皇に長岡京を捨てる決心をさせたというものである。
執筆者:

長岡京[市] (ながおかきょう)

京都府南部の市。1972年乙訓(おとくに)郡長岡町が市制を施行,改称して長岡京市となる。人口7万9844(2010)。市名は隣接する向日(むこう)市など当地一帯に所在した古代の長岡京に由来する。京都盆地南西部に位置し,東部には桂川西岸の沖積平野がひろがり小畑川が南流,西には大阪府境の山地がつらなって段丘・丘陵をなす。平地部の神足(こうたり)にある雲ノ宮遺跡は弥生時代前期の集落遺跡で,京都盆地での水稲耕作はここから始まったとみられている。全長120mの恵解山(いげのやま)古墳(前方後円墳)など,古墳も多い。北部山麓の粟生(あお)には鎌倉時代に開かれた西山浄土宗総本山の光明寺がある。中央部には菅原道真をまつる長岡天満宮があり,ツツジの名所として知られる。小畑川の西岸にあった勝竜寺城は,応仁の乱の際,この地域における西軍の拠点であった。JR東海道本線,阪急京都線,国道171号線が南北に貫き,京都,大阪への交通の便がよいため,1960年前後から急激に宅地化が進んだ。東部の低地には電機,化学,製紙などの多くの工場ができた。段丘・丘陵上ではモウソウチクの栽培が盛んで,たけのこの産が多い。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「長岡京」の意味・わかりやすい解説

長岡京【ながおかきょう】

古代の都。桓武(かんむ)天皇が人心一新のため784年より現在の京都府長岡京市と向日(むこう)市を中心とした地に造営,遷都。翌年遷都の首唱者藤原種継(たねつぐ)の暗殺,暗殺の容疑者としての早良(さわら)親王廃立事件など不祥事件が続発,794年平安京に遷都。
→関連項目漆紙文書京都[府]藤原種継平安遷都平城京向日[市]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長岡京」の解説

長岡京
ながおかきょう

784年(延暦3)に桓武天皇によって造営された都城。794年の平安遷都まで,約10年にわたって存続した。山背(城)国乙訓(おとくに)郡,現在の京都府向日(むこう)市・長岡京市・大山崎町にまたがり,桂川右岸に立地。宮城や9条8坊(北辺を含む)で構成される京域が復原され,その規模は基本的に平安京に一致する。中央北端の宮城はとくに発掘が進んでおり,その結果,内裏(だいり)は当初朝堂院北方に位置し,のち東北方に移動して平安宮と同じ配置になったこと,平城宮と同じく大極殿閤門(こうもん)が存在したこと,朝堂は難波宮と同じく8堂で建物自体の構造も共通することなどが判明した。藤原・平城・難波の各宮から移送・再利用された瓦も多数出土している。存続期間は短いが,平城宮・後期難波宮から平安宮への過渡期にあるようすを端的に示している。宮跡の一部は国史跡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長岡京」の意味・わかりやすい解説

長岡京
ながおかきょう

桓武天皇,延暦3 (784) 年から同 13年までの都。京都府向日市,長岡京市と京都市伏見区,西京区にわたる地域を占めていた。人心一新のため,藤原種継の首唱によって平城京から遷都したが,翌年種継が殺され,その事件に連座して廃太子早良親王 (さわらしんのう) のたたりといわれる事件が次々に起ったため,造営工事はついに中止され,平安京に遷都した。都とされたのは,わずか 10年であったが,記録,遺構などから考えて,大路,小路なども整備され,大内裏の殿舎,東西の市も完成していたものと思われる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「長岡京」の解説

長岡京
ながおかきょう

784年,桓武天皇が平城京から現在の京都府向日 (むこう) 市付近に造営移転した都
翌785年遷都の首唱者藤原種継の暗殺など不祥事があいついでおこったため,794年造営中止。平安京に遷都した。

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防府市歴史用語集 「長岡京」の解説

長岡京

 784年に平城京[へいじょうきょう]からうつされた都です。平安京[へいあんきょう]に都がうつるまでの10年間存続しました。

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世界大百科事典(旧版)内の長岡京の言及

【条坊制】より

…条数は3条を減じて9条,坊数はやはり4坊であるが,左京の東に5条×3坊分の〈外京〉が付設された。長岡京は基本的には平城京の左京・右京各9条4坊を踏襲したらしいが,なお京域は未確認。平安京も左右京それぞれ9条4坊であるが,北に半条分の北辺がつく。…

【都城】より

恭仁(くに)京も賀世山の西の道から東を左京,西を右京とし,宅地の班給も行われたが,都城の構造はまだ推定の域を出ていない。さらに長岡京平安京は基本的には平城京を踏襲したもので,長岡京はなお不確定の部分があるが,外京はなく,北辺と同じように,左右京とも北に半条分拡大され,宮域も拡張された。なお藤原京,平城京,長岡京における条坊制街区の割付けは道路の中心から中心までの間で行われ,平安京では道路幅を除外し,一つの町は40丈(約120m)四方と画一化され,四行八門の制によって細分化した。…

※「長岡京」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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