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初代将棋名人。京都の町人出身で宗慶といい,後に宗桂と改名。将棋が上手であったために織田信長,豊臣秀頼,徳川家康,徳川秀忠に遊興の奉仕として召し出され,本因坊算砂らと将棋を指して巧芸を披露した。江戸幕府成立後,将棋指衆として召し抱えられ,碁所より分岐した将棋所の司として初代名人になり,50石五人扶持の俸禄を与えられた。これは将棋が市井の遊芸から幕府公認の技芸として認められ,民間の将棋指しが幕臣に加えられたことを意味し,将棋史上画期的なできごとであった。宗桂を祖とする大橋本家は1910年断絶するまで12代続き,そのうち2代宗古(1576-1654),5代宗桂(1636-1713),9代宗桂(1744-99)が名人となった。宗桂は将棋ルールの確立に努力し,また,詰将棋作品集の《象戯図式》を残している。
執筆者:増川 宏一
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将棋1世名人。京都生まれ。80歳で没し、霊光寺(京都深草)の桂馬の2字が刻まれた墓碑は有名。宗慶の慶を桂と改めたのは織田信長の勧めと伝える。信長に召され「将棋師」の待遇を受け、1607年(慶長12)本因坊算砂(さんさ)との平手戦が最古の棋譜として残る。将棋所名人として駿府(すんぷ)の徳川家康、江戸の秀忠(ひでただ)に招かれて将棋の芸を披露した。『象戯(しょうぎ)図式』(詰め将棋)50番を出版、現存でいちばん古い棋書である。1576年(天正4)2代大橋宗古が初代宗桂嫡男として生まれる。宗古は「二歩、千日手、死に駒を打つこと」を禁ずる3か条を示す。親子2代で将棋の基礎をつくった。
[原田泰夫]
『木村義雄他監修『日本将棋大系1』(1978・筑摩書房)』
(谷口牧夫)
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1555~1634.3.9
江戸初期の著名な将棋指(しょうぎさし)。能楽師とかかわりのある京都の町衆の出身で,将棋三家の筆頭大橋本家の初代。初見は「鹿苑日録」の天正20年(1592)とみなされる。徳川家康をはじめ公家や寺社にも招かれ,駿府(すんぷ)城や江戸城内でも本因坊算砂(さんさ)と対局するなど,職業的将棋指の先駆。1602年(慶長7)に山科言経(ときつね)が宗桂の詰将棋集を天皇に献上している。12年に幕府から50石5人扶持を支給された。吉田社や神竜院などに招かれて将棋の技芸を披露していたと「舜旧記(しゅんきゅうき)」にみえる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…なお,駒数の少ない小将棋がゲームの興味を増すために,相手から取った駒を再使用できるルールを確立したのもこのころのこととみなされる。
[江戸時代の将棋]
戦国時代の武将であった織田信長,徳川家康,豊臣秀頼らは,当時の将棋の上手(じようず)であった本因坊算砂や大橋宗桂らを召し出して指させるなど将棋への関心が高かった。徳川幕府が成立した直後に算砂や宗桂は囲碁,将棋の芸人として召しかかえられて,この部門は碁将棋所(ごしようぎどころ)とよばれた。…
※「大橋宗桂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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