大庭庄(読み)おおばのしよう

日本歴史地名大系 「大庭庄」の解説

大庭庄
おおばのしよう

現守口市の淀川南岸、大庭とよばれた地域にあった掃部寮領。大庭御野ともいう(弘安三年正月二六日「六波羅裁許状」押小路文書)。「遊女記」に「掃部寮大庭庄」と初見。元亨三年(一三二三)四月日の掃部寮領大庭御野供御人等申状案(勝尾寺文書)に「右当御野者、文武天皇御宇、大宝年中、被立券庄号以来、禁裏 仙洞之供御々庄以下、諸神諸社之祭礼役、自正朔至歳暮、専為当御領之勤仕、重役無双異于他者也」とある。一方「令集解」職員令掃部司の「古記」注に「問、諸鋪設之属何物也、答、茨田葦原、充地在、即以駈使丁、令作殖而造備」とあり、「延喜式」(掃部寮)に「蒋沼一百九十町在河内国茨田郡、刈得蒋一千囲、菅二百囲並刈運夫以当国正税雇役、莞五百囲摂津国徭夫刈運」とみえる。大庭御野はこの茨田まんだの葦原・蒋沼にまでさかのぼるものと推測される。前出元亨三年の供御人等申状案の文言後世の見方ではあるが、大宝年中、あるいは大宝令によって、茨田の原野が正式に「御野」として設定された事実を伝えているとも考えられる。

鎌倉期の当庄は紅花・薦を公役として負担する名田畑をもつ供御所であり(勝尾寺文書)、供御人は莚作手などではなかったかと推測されている。また当庄からは人夫役なども徴発されていたと推測されるが、のちには物納化されて年貢上納が主となっている。承久三年(一二二一)に賀陽門院に売却された大庭御庄内外野の畑地一反の収取物をみると、所当麦二斗七升、供給白米一升・麦四升、雑公事として宿直小袴・帷代二五文となっている(同年三月二五日「宗岡員頼畠地売券」同文書)

大庭庄
おおばのしよう

古代の二方ふたかた郡大庭郷(和名抄)の郷域に成立したと思われる庄園。庄域は現浜坂町の北西部、岸田きしだ川の下流左岸域から居組いぐみ(伊含)など日本海に面した海岸部に及んでいたと推定される。皇室領(京都長講堂領)。同じ長講堂領の久斗くと庄と合せて久斗・大庭庄ともよばれた。建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂領目録(島田文書)に「久斗・大庭庄」とあり、久斗庄と併記され、課役は両庄で寺役として元三行事に使用する御簾二間・畳一二枚(小文)、同じく寺役の兵士(三・四・九の三ヵ月、月別二人)、また三月御八講砂五両、御牛三頭の費用として能米七石二斗(一一月料)、門兵士三人(油小路面門、一〇月三〇ヵ日)、召使給物上絹二疋などを負担していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報