大山寺跡(読み)だいせんじあと

日本歴史地名大系 「大山寺跡」の解説

大山寺跡
だいせんじあと

[現在地名]浜松市大山町

近世西にし大山おおやま村にあった真言宗寺院。地元ではオオヤマデラとも称した。現在の白山神社付近に境内を構えた。明治初年に廃絶し、仏像などは引佐郡気賀けが長楽ちようらく(現細江町)に移されたが、その後返還され、現在は白山神社の傍らに建物が設けられ、西大山教会として維持されている。本尊聖観音で、天明七年(一七八七)浜松藩主井上氏は幕府に紀州高野山平等院末と上申している(「諸向御届」井上家文書)。現春野はるの大智だいち寺が所蔵する大般若経の奥書に、貞治元年(一三六二)一二月二一日付で遠州「大山寺藤本坊」(巻八二)、同三年八月二二日付で「大山寺池坊」(巻二六二)、同年六月二二日付で「大山寺井上坊」(巻四四三)とみえる。

大山寺跡
おおやまでらあと

[現在地名]一の宮町坂梨 馬場

旧豊後街道から外輪山内壁を少し登ったところに跡地があり、墓石が現存する。医王山と号し、天台宗、本尊薬師如来。平重盛建立と伝えるが、開基年代など不明。寺名を称する郷もあった。建長元年(一二四九)と追筆のある九月一二日付法橋覚縁挙状(阿蘇家文書)に「大山寺留守并神人等」とみえ、砥用ともち(現下益城郡砥用町)小北おきた(現上益城郡甲佐町か)地頭代官が、当寺の留守別当や神人による狼藉を訴えている。これは同年に地頭が、甲佐社領佐俣さまた(現下益城郡中央町)などを押領したと北条氏に訴えられたこと(同月二日「北条時頼雑掌奉書」同文書)に対抗するため、逆に訴えたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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