大宅郷(読み)おおやけごう

日本歴史地名大系 「大宅郷」の解説

大宅郷
おおやけごう

和名抄」高山寺本・東急本とも「大宅」と記すが訓を欠く。優婆塞貢進文(正倉院丹裏古文書)に「紀伊国名草郡大田郷戸主大宅直広麻呂直乙麻呂年十八」とみえ、郷名を冠する大宅直広麻呂が大田おおた郷の戸主であったことからして、大宅郷は大田郷の近辺と思われる。郷名は欽明天皇一七年一〇月に設置された海部あま屯倉(日本書紀)に由来し、これが発展して名草郡衙になったとされる。名草郡衙は現和歌山市手平てびら付近と推定され、大宅郷の郷域も手平を中心に、手平出島てびらでじま北出島きたでじま新中島しんなかじまくいの地域であろう。

なお検討を要するが嘉禎四年(一二三八)九月二五日の日前・国懸宮四方指写(日前宮文書)の「日前・国懸社御遷宮時四面四至糺定堺郷々」の西境として「他領 雑賀庄、園豆・鈴丸、神領 小宅郷西嶋西畠、大田郷西畠、吉田郷本畠新畠」とみえ、この小宅おやけ郷は古代の大宅郷にあたると思われ、以後中世の日前国懸ひのくまくにかかす宮の神領として検田畠取帳にみえる。

大宅郷
おおやけごう

「和名抄」東急本には「大宅」、高山寺本には「太宅」とあり、いずれも訓を欠く。同書の播磨国揖保郡大宅郷には「於保也介」の訓が付されるので、これに準じて訓じておく。「日本地理志料」は現足利市福富ふくとみ町・上渋垂かみしぶたれ町・下渋垂町付近に比定する。「大日本地名辞書」は大宅とは郡衙(「コホリノミヤケ」ともいわれる)所在地であり、またやけ八木やきに転訛したと考え、八木を含む明治二二年(一八八九)成立の御厨みくりや(現足利市福居町・島田町・上渋垂町付近)にあてる可能性を示す。しかし「万葉集」巻二〇に天平勝宝七年(七五五)に筑紫へ差遣された防人として梁田郡上丁大田部三成の名がみえ、屯倉の耕作に従事した部民である田部に由来する姓をもつ人物が郡内に居住していること、隣郡の足利郡内に田部たべ郷が存在することなどより考えれば、当郷も田部郷と同様に、屯倉に由来するものではないかと推測される。

大宅郷
おおやけごう

「和名抄」にみえるが、諸本ともに訓注はない。地名は遺存しないが、大宅は官衙を意味するから、河内郡衙の所在した郷と考えてよかろう。河内郡条里の五条の地は南北に長い河内郡のほぼ中央に位置しており、郡衙の所在地として好適である。現在の東大阪市河内町(旧客坊村)に河内寺と書いて「こんでら」と読む小字名が残り、奈良時代前期の古瓦を出土する四天王寺式伽藍配置の河内寺跡が発掘されている。五条ごじよう村の名も、寛文二年(一六六二)長尾ながお客坊きやくぼう切川きりかわ(喜里川)の三村に分れるまでは存していた。この五条村四条しじよう村を併せた地域、すなわち河内郡条里の四条・五条の地がおよそ大宅郷の境域であろう。

大宅郷
おおやけごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「大宅」と記すが訓を欠く。「福山志料」は「ヲヽヤケ」と傍注する。「日本地理志料」は「於保也介」と読み、大宅は屯倉で、「日本書紀」安閑天皇二年五月九日条にみえる婀娜あな国の「胆年部屯倉」をこの地にもとめ、さらに大門だいもん坪生つぼう浦上うらかみ野々浜ののはま津之下つのした能島のしま引野ひきのの諸村(現福山市)を郷域にあてようとする。「大日本地名辞書」は「今の市村及び吉津村、千田村等、福山の東北を云ふ如し、蓋古の郡家にして、深津市と云ふも此とす、安閑紀の婀娜あな胆殖いにえ胆年部いとしべの二屯倉の其一、亦此とす」とする。

大宅郷
おおやけごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。「日本書紀」武烈天皇即位前紀に

<資料は省略されています>

の長歌がみえ、天平勝宝元年(七四九)一一月三日の大宅可是麻呂解(東南院文書)に「大倭国添上郡大宅郷」とある。「大和志」は「已廃存白毫寺村、今曰宅春日」として現奈良市白毫寺びやくごうじ町に比定するが、長承三年(一一三四)の大和国大宅荘下司解(東大寺文書)によれば大宅庄の所在は「添上郡三条二里」であり、嘉禄二年(一二二六)の勧学院政所下文案(内閣文庫蔵大乗院文書)に「京南(中略)三条一里五坪・十五坪若槻庄、二里十三坪・廿七坪大宅庄」とあるので、現大和郡山市大江おおえ町付近と考えられる(大和郡山市の→大宅庄

大宅郷
おおやけごう

「和名抄」には不載の郷で、天平勝宝二年(七五〇)四月六日付の智識優婆塞貢進文(正倉院丹裏古文書)に、

<資料は省略されています>

とみえる。当郷に海連馬手の戸の存在が知られる。これはその戸口である海連津守が智識優婆塞として貢挙された時の貢進状である。当郷の訓については、「和名抄」播磨国揖保いぼ郡の大宅おおやけ郷に「於保也介」の訓をみ、「おほやけ」とよばれたとしてよかろう。この郷の詳細については不明であるが、その音の類似から、愛智郡太毛おおけ郷がこれに該当することも考えられる。

大宅郷
おおやごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「於保也介」と訓を付す。天平勝宝二年(七五〇)四月五日の写書所解(正倉院文書)に「額田部真嶋年卅七、肥後国宇土郡大宅郷戸主額田部君得万呂戸口」とある。「三代実録」貞観六年(八六四)一一月四日条には「停肥後国大宅牧」とあり、当郷付近に官牧があったものと思われる。

大宅郷
おおやけごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本・東急本の訓はともに「於保也介」。「播磨国風土記」に大家おおやけ里がある。もと応神天皇が宮を同地に営んで大宮おおみや里と称したが、のち田中大夫が播磨国の宰であったときに大宅里に改めたという。風土記には当郡石海いわみ酒井さかい野の条にも応神天皇が宮を大宅里に造ったとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報