大原庄(読み)おおはらのしよう

日本歴史地名大系 「大原庄」の解説

大原庄
おおはらのしよう

現山東町西部一帯から伊吹町春照すいじよう東浅井ひがしあざい郡浅井町相撲庭すまいにわに広がる地域に比定される法勝ほつしよう蓮花蔵れんげぞう(跡地は現京都市左京区)領庄園。領家は京都仁和寺、地頭は佐々木大原氏。庄内夫馬ぶま郷・間田はさまた郷などの多数の田地が大原観音寺に寄進されている。

承安四年(一一七四)一〇月一三日の官宣旨案(大原観音寺文書、以下同文書は省略)に「蓮花蔵院領大原庄」とみえ、法勝寺の蓮花蔵院(新阿弥陀堂)領で、仁和寺が代々伝領してきたとあり、白河院御起請文に任せて伊勢役夫工や勢多せた(現大津市)などの諸役を免除されている。当初仁和寺領で、永久二年(一一一四)白河上皇によって建立された法勝寺新阿弥陀堂に寄進され、本家を蓮花蔵院、領家を仁和寺とするようになったのであろう。正元二年(一二六〇)三月、仁和寺門跡法助より庄内の分米三石五斗の新田五段が参丞谷観音堂仏供灯明料として寄進されている(准三宮庁下文案)。同年五月、庄内の田と野畠各一町五反の馬上免田畠が地頭より福宝寺へ寄進されているが、この田畠は本家・領家・預所・地頭・公文のための祈祷をする費用を捻出する田畠であるという(地頭某免田畠寄進状)

大原庄
おおはらのしよう

河口湖南岸に所在した庄園。加藤遠山系図(蓬左文庫蔵)に中村太郎の妻となった加藤次景廉(左衛門尉、大夫判官)の女子の所領として「甲斐国大原庄」とみえ、加藤氏の所領であった。治承四年(一一八〇)八月の石橋山合戦に敗れた加藤光員・景廉兄弟が引籠った「富士山麓」(「吾妻鏡」同月二八日条)は、当庄であったと推測される。小立常在こだちじようざい寺所蔵の「円極実義抄」下の奥書に「甲斐国都留郡大原庄小館常在寺」とある。年紀は不明だが、書写した日授が貞和元年(一三四五)に没しており(甲斐国志)、これに先立つものである。同様の記述は同寺所蔵「雲州往来」の奥書(書写年次未詳)にもみえる。

大原庄
おおはらのしよう

現甲賀町内、大原川流域の大原谷と油日あぶらひ谷沿いに形成された広域の庄園で、甲賀谷の一部に含まれる。「左経記」長元五年(一〇三二)八月二五日条に「甲可郡大原庄」とみえ、古代末期には藤原道長の所領とされ、娘の一条天皇中宮藤原彰子に譲渡するようにとの遺言があったが、同年に藤原義通を預所として小二条殿の修理用材木用途に充てられている。「源平盛衰記」巻四一によれば一二世紀後半には法勝ほつしよう(跡地は現京都市左京区)領であった。正応三年(一二九〇)富樫家春が鎌倉幕府から篝屋料所として知行を認められており(同年四月二八日「関東御教書案」大阪四天王寺所蔵如意宝珠御修法日記裏文書)、当庄にも地頭職が設置されていたものと思われる。また奈良興福寺領分は、南北朝期には不知行となっていたらしく、観応二年(一三五一)六月一七日には興福寺末季頭衆から幕府引付方に訴訟しているが(御挙状等執筆引付)、同寺領は坂田郡大原庄(現山東町)の可能性もある。

大原庄
おはらのしよう

本願田(官省符荘か)施入に基づくという興福寺領荘園である。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の高市郡に「大原庄四町四段百八十歩 本願施入田也」とある。その条里(括弧内は坪数)は、東二九条四里(二)・五里(四)、三〇条四里(一)・五里(五)である。この条里によると、大原庄の所在は現大字小原おはらとなる。「大乗院雑事記」文明一四年(一四八二)閏七月二三日条の興福寺仏聖領(寺務領)のうちに「大原をはら庄」とある。延久以来の本願田によるものであろう。

大原庄
おおはらのしよう

比定地未詳だが、大東だいとう(現大東町)大西だいさい(現加茂町)などいずれかの異称と考えられる。安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(山科家古文書)の庁分の項に「出雲国大原」とみえ、八条女院の女院庁に属する庄園であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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