多良(読み)たら

日本歴史地名大系 「多良」の解説

多良
たら

北流する牧田まきだ川の流域、市之瀬いちのせ村の南に広がる広域地名。中世の土岐多良ときたら庄を受けるもので、近世には多良村として把握され、また史料上は南のとき村と合せて記されることが多い。牧田川沿いに伊勢西街道が通る。

慶長四年(一五九九)諸大名・旗本分限帳(内閣文庫蔵)に関一政知行分として土岐多羅三万石とみえる。関氏は関ヶ原合戦ではじめ石田三成方であったが徳川家康側に転じ、戦後伯耆国に転封となった。同六年の高木四家知行書立(市田文書)には「たら村」のうち二千二七五石余とあり、慶長郷帳では高木貞友(東高木家)・同貞俊(北高木家)・同貞盛(西高木家)分として多良村二千一九四石余と記される。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では、旗本日根野高継領五九九石余、同高木三家領二千一九四石余、同青木可直領三六七石余、同別所重家領三八五石余、尾張藩木曾組衆領一三九石となっている。正保郷帳には高三千六六二石余とあり、うち田一千七五六石余・畑一千八七〇石余、紙桑木高三石余・山年貢高三一石余。村高のうち尾張藩領一三八石、高須藩領五九九石余、旗本青木直澄領三六七石余、旗本高木貞勝領一千一七二石・同貞友領五〇〇石余・同貞元領五〇〇石、旗本別所孫右衛門領三八五石余。

多良
たら

近世に多良三郷と称した現上多良・中多良・下多良一帯に比定される。天野あまの川河口に位置し、近代以前は筑摩つくま江とよばれた入江いりえ内湖に臨んでいたため、漁業とくに簗漁とのかかわりがみられ、建武三年(一三三六)四月一六日の足利尊氏安堵状(多良文書)によると「筑摩拾陸条弐ママ」の「多良川春梁並ニママ」が藤原重俊に安堵されている。また文明三年(一四七一)八月一二日の多賀清直安堵状(同文書)には「筑摩十六条川、公文成敗分事、任先例多良ノ猟師ニ被申付」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報