壺屋(読み)ツボヤ

デジタル大辞泉 「壺屋」の意味・読み・例文・類語

つぼ‐や【×壺屋】

主な家屋に付属して建てられた小屋物置の類。
壺屋紙」の略。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「壺屋」の意味・読み・例文・類語

つぼ‐や【壺屋】

[1] 〘名〙
① まわりを壁・板など、恒久的なもので仕切った部屋。また、物置、納戸(なんど)のような、まわりを壁・板などで囲った小屋。
今昔(1120頃か)二七「年老て立居も不安(やすから)ぬ母の有けるを一つの壺屋に置て」
② 南九州の陶器の産地で、窯業場をいう。
博打(ばくち)で、采(さい)を入れた筒を振る役。
※雑俳・川柳評万句合‐安永元(1772)梅三「御かいこはおそろおそろとつぼやいい」
五重塔(1891‐92)〈幸田露伴〉一「壺屋(ツボヤ)の煙草入(りゃうさげ)三尺帯に」
[2] 江戸時代、江戸日本橋葺屋町にあって、泡雪豆腐を名物にした店。芝居客を得意とした。
歌舞伎絵本合法衢(1810)大切「淡雪は壺屋、蕎麦砂場

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日本歴史地名大系 「壺屋」の解説

壺屋
ちぶや

[現在地名]那覇市壺屋一―二丁目・三原一丁目・寄宮一丁目

近世期、沖縄島内三ヵ所にあった陶窯を真和志まーじ間切牧志まちし村の南外れに集めて作られた陶窯地。地名も陶窯にちなむ。現在はツボヤという。「中山伝信録」では「壺家山」と記される。康熙二一年(一六八二)美里んざとう間切知花ちばな(現沖縄市)、首里宝口たからぐち、那覇湧田わくたで行われていた陶窯がこの地に移された(「球陽」尚貞王一四年条)。これを受け、乾隆二年帳には真和志間切の新設の村として「壺屋村」が記されるが、当初は作業場としての性格が強いと思われる。乾隆四年(一七三九)壺屋村は真和志間切より那覇泉崎いずんざち村の籍内に移管された(「球陽」尚敬王二七年条)。三ヵ所の陶窯が統合された理由は明らかではないが、壺屋が首里に近接し、官窯として王府の直接支配が可能であったこと、原料となる陶土および薪などの材料の確保・運搬、製品の積出し(泊港)等が容易であったことなどが考えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の壺屋の言及

【沖縄[県]】より

…15世紀初期の陶器は南方系の素焼が多く,中部の知花(ちばな)や読谷(よみたん)村の喜名,北部の古我知(こがち)でおもに酒がめや水がめがつくられた。16世紀初期には喜名や知花の窯が王府によって那覇の壺屋に移された。そして17世紀初期に王府は薩摩から高麗人陶工張献功(一六),一官,三官らを招聘(しようへい)して朝鮮式陶法を伝授させ,さらに17世紀中期には陶工平田典通を中国に派遣して赤絵の技法を習得させた。…

【那覇[市]】より

…第2次世界大戦の戦災をうけて市街地は灰燼に帰し,戦前那覇を中心に通じていた沖縄県営鉄道(1914創業,全延長48km)も破壊され,以後,交通は道路のみとなった。戦後,県がアメリカ軍の統治下に置かれたため,旧市街地は立入禁止が続き,市の復興は1945年11月郊外の壺屋地区に陶器や瓦製造を目的とした103名の居住が許可されて以降始まった。その後疎開地からの帰還者や,本土,海外からの復員者の流入によって人口集中が活発となり,しだいに市街地が形成されていった。…

※「壺屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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