垣内村(読み)かいちむら

日本歴史地名大系 「垣内村」の解説

垣内村
かいちむら

[現在地名]三原市八幡やはた町垣内

かがり村の南に位置する。「加井知村」とも書く。御調みつぎ郡に属した。三原の市街地から北に通じる会下えげ(恵下谷)の北にあり、南東の竜王りゆうおう(六六五・一メートル)と南西の大峰おおみね(鷹羽山・高羽山、六一〇・二メートル)に続く山地が村域の南半分を占める。南東流して当村の中ほどで流路を北東に変える御調川の流域に、標高二三〇メートル前後の平坦地が広がる。平坦部の南側山麓沿いに古代の山陽道が通じていたと考えられる(三原市史)。三原から会下谷に沿って東城とうじよう(現比婆郡東城町)に至る道が当村を経て坂井原さかいばら(現御調郡久井町)へ通ずる。集落はこの街道沿いと、周辺の山麓一帯に点在。

垣内村
かいちむら

[現在地名]八尾市垣内・高安たかやすみなみ三―六丁目

教興寺きようこうじ村の南、高安山麓に立地。山麓を南北に走る東高野街道のすぐ東の山手である。南は恩智おんぢ村。村名は天正一二年(一五八四)一一月の河内国御給人御蔵入之内より出米目録(中之島図書館蔵)に「二百八拾石内廿四石余ハ大かた郡ノたかいだ・太平寺ヨリ出ス也 かいとう村」とみえ、「右之内ヨリ三拾九石七斗五升又ゝノ出米」とある。高木彦左衛門の知行。江戸時代の村高は正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳で三〇二石余、ほかに山年貢高六石余。

垣内村
かいちむら

[現在地名]姫路市網干区垣内本町・網干区垣内北町・網干区垣内東町・網干区垣内中町・網干区垣内南町・網干区垣内西町

揖保川の左岸、余子浜よこはま村の北に位置する。揖東いつとう郡に属し、北西は津市場ついちば村。江戸時代を通じて余子浜村に含まれたが、長太郎ちようたろう垣内・網干あぼし垣内の名を伝え、古くから一村落の形態をとっていた(網干町史)。「日本民謡集」に登載される網干音頭は広く歌われた盆踊唄で、主人公である網干垣内の長太郎は鎌倉時代の長者と伝承され、当村が発祥の地とされる(網干町史)。字長太郎には長太郎屋敷跡と伝える礎石が現存する。戦国期当地には英賀あが城の砦の一つであった魚吹津うすきつ構があったとされ、天正八年(一五八〇)羽柴秀吉の中国攻めにより破却されたという。

垣内村
かいとむら

[現在地名]桃山町垣内

野田原のたはら村の東南、南流する細野ほその川の西側に位置する小村。東対岸は中畑なかはた村、南は四郷よごう(現海草郡美里町)に接する。

近世高野山領で「続風土記」は村高六七石余、家数一五、人数八七を記し、細野庄本郷とされ、丹生にう神社はその氏神で、古くは大宮ともよばれた。同社には八幡宮も祀られるが、この八幡は同書には中畑村の川淵にあった社を合祀したと記す。また本地堂は神宮じんぐう寺とも薬王やくおう寺ともよばれ、現在も釣鐘堂が残り、その鐘銘には「細野村巴竜山神宮寺」とある。「続風土記」は薬王寺の項に「大宮境内舞台の西にあり、又神宮寺といふ、堂の大さ七間に三間半、荘中集会の所とす、境内にあれとも別当寺とはせさる也」と記している。

垣内村
かきうちむら

[現在地名]芦北町田川たがわ

矢筈やはず山麓に位置し、小高い平地状をなす。北はいま村、北から東にかけて野々木ののき村に接し、あんノ山を境にして大野おおの村に通じる。現在の字上野角かみのずみを中心とする地域。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。元禄国絵図に「佐敷村之内垣内村」とある。佐敷手永に属し、正徳(一七一一―一六)頃と思われる表題破損の文書(伊藤家蔵)では高九石九斗余、田畝数九反三畝三歩の小村だが、「国誌」に高一〇九石六斗余、文化一〇年(一八一三)の佐敷手永村々高附帳(熊大図書館蔵)では高一一九石五斗余に増加しているので、村域の統合があったとみられる。

垣内村
かいとむら

[現在地名]北勢町垣内

ふもと村の北、員弁川支流の多志田たしだ川の南に位置する。治田はつた郷八ヵ村の一つ。「員弁雑志」は郷中の惣社賀毛かも神社の鎮座地であるから神垣の内の意であるとしている。「勢陽雑記」「三国地志」は「貝戸」と記しており、「五鈴遺響」は「垣外トモ作ル、治田ノ分置スル処ナレハ垣外ノ義ナルヘシ」としている。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば、幕府領で高六五六・四四石。他の七村同様、享保一一年(一七二六)から明治維新まで上総一宮藩領。

垣内村
かいちむら

[現在地名]園部町内林町うちばやしまち

上木崎かみきざき村の東、下木崎村の北に位置し、東は曾我谷そがだに村、北は今林いまばやし村である。ほぼ全村域が平坦地帯。狭小な村であるが、村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳では三六一石余で、天保郷帳には三九八石余となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報