土谷村(読み)つちやむら

日本歴史地名大系 「土谷村」の解説

土谷村
つちやむら

[現在地名]小谷村大字中土なかつち 土谷

ひめ川右岸に位置し、姫川に流入する土谷川の谷に沿った狭長な山村である。

村名土谷は、天正七年(一五七九)仁科盛信からの宛行状(倉科文書)に「小谷池原・土屋ニ弐貫五百文」とあるのを初見とする。次いで天正八年武田勝頼の安堵状(倉科文書)に「土屋之寺分壱貫文」とあり、土谷村に寺の存在を伝えているが、その寺名は明らかでない。

土谷村は、江戸時代初期において、後の中谷なかや村・深原ふけら村とともに東小谷村と総称されていたが、慶安二年(一六四九)の松本領検地以後土谷村と称するようになった。

土谷村
つちやむら

[現在地名]江刺市田原たはら

餅田もちだ村の南に位置し、東部は北上高地西端の低い丘陵、西部東方から南方を流れる伊手いで川と、西境を南流する人首ひとかべ川に挟まれた沖積低平地に立地。土屋村とも書かれた。寛永一九年(一六四二)の土谷村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方二八町四反余・代三四貫一三〇文、畑方一七町二反余・代五貫五四六文、茶畑二反余・代五二九文。正保郷帳では田三二貫二四九文・畑五貫七〇六文、ほかに新田二貫二五〇文がある。

土谷村
つちやむら

[現在地名]本荘市内越うてつ 土谷

子吉こよし川下流東岸にあり、西南部に耕地が開ける。西は子吉川を挟んで本荘町出戸でと町と接し、南は真木まぎ山をもって廿六木とどろき村・大中野沢おおなかのさわ村と接し、北は川口かわぐち村。

近世初期には北の谷地やち村と南の土屋つちや村は一体としてとらえられ土谷村とよばれ、その後二村分離、天保郷帳に「古者 谷地村 土屋村 弐ケ村」とある。明治八年(一八七五)両村が合併して土谷村となる。

土谷村
つちたにむら

[現在地名]山中町上原町うわばらまち

上原村北東、大聖寺だいしようじ川の河岸に位置する同村出村。天保郷帳に村名がみえるが、文政四年(一八二一)頃までには上原村に併合されたといわれ(加能郷土辞彙)、「江沼志稿」も上原村のうちに含ませている。集落の位置から上原村をかみ村というのに対ししも村ともよばれた。正保郷帳によると高一二二石余、田方四町三反余・畑方四町余、物成高四〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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