国包村(読み)くにかねむら

日本歴史地名大系 「国包村」の解説

国包村
くにかねむら

[現在地名]加古川上荘町国包かみそうちようくにかね

井之口いのくち村の東に位置する。東西姫路へ至る道が通る。加古川対岸の井之口村との間に川幅六一間の渡しがある(伊能忠敬測量日記)。昔は川が現在より東側を流れていたが、嘉禄元年(一二二五)に大洪水が起こり全村が流失し、その後流路が西に移動し村の大半は川の東岸となったという(増訂印南郡誌)。慶長国絵図には「国かね」とみえる。正保郷帳によれば田方一五二石余・畑方一五八石余。元文二年(一七三七)の村明細帳(畑家文書)によると田九町一反余・分米一七二石余、畑一四町八反余・分米一八七石余、ほかに川欠永引一五石余、新田畑一七町九反余・分米一七五石余、小物成は犬米・種貸元米および利米・高瀬舟三艘分役米・草藁銀・請林運上銀など、家数一三四・人数七一七(うち大工四・桶屋二・医師三・木挽六・紺屋一・材木屋三・陸塩売四・旅籠屋五・酒屋二・蔵本四・蚕種商二)、牛三四、小船九、威鉄砲二、山七(上野山・ふく丞山・白沢山・東嶽山・五人山・川端山・小坂山)の運上銀計九四匁、池三(はいが池・上池・谷河池)

国包村
くにかねむら

[現在地名]大東町国包

きく(国安川)の支流牛淵うしぶち川流域の村で、東は国安くにやす村。永正一七年(一五二〇)八月六日の高松社神田注文(中山文書)は、今川氏が高松たかまつ(現浜岡町)に安堵した鼻連はなつら崎の田地を列挙しており、各々の耕作者のほとんどに肩書される「くにかの」は当地にあたると推測される。うち番匠と肩書されたものが一名あり、鍛冶が存在した傍証となろう。天正二年(一五七四)一二月二〇日の小笠原信興判物(同文書)も同社に所領を安堵しており、なかに「国兼村 弐町」とみえ、当地は高松社領であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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