四日町村(読み)よつかまちむら

日本歴史地名大系 「四日町村」の解説

四日町村
よつかまちむら

[現在地名]小出町四日町

北方を羽根はね川が流れ、村内で西方を流れる破間あぶるま川に合流し、破間川は南西を流れる魚野うおの川に合流する。三河川に三方を囲まれた三角点に立地。信濃国方面から会津に至る古道は、現堀之内ほりのうち町南端の三坂みさか峠を越え田河たがわ川に沿って当地に出て、破間川沿いに北上して六十里越ろくじゆうりごえ(現入広瀬村)より会津に入った。諏訪神社の門前には月々市場が立ち、それが村名となった。「北魚沼郡志」には「毎年十月十日頃より十一月二十日頃迄日々の市なり、商物多き中にも、煎茶と塩漬魚なり、諏訪市と号し、春を迎ふるの支度なり」と記しており、「新編会津風土記」には、元和(一六一五―二四)以前は四日市よつかいち村と称していたという。

四日町村
よつかまちむら

[現在地名]韮山町四日町

狩野かの川右岸沿いに位置し、南北に下田街道が通る。東は土手和田どてわだ村。大永八年(一五二八)閏九月二日の某証状写(相州文書)によると、「北条四日町大夫屋敷」が天十郎大夫に下されており、「舞々・いたか・陰陽」を支配する大夫の屋敷の存在は市場として繁栄していたことを推測させる。下田街道沿いの北条ほうじようの地に定期的に開かれた市によって形成された町場であろう。ただし某証状写には検討の余地がある。天文二〇年(一五五一)一二月二三日の清水康英判物写(新井氏所蔵文書)からは、北条氏の「四日町御蔵」が設けられており、年貢等の集積、物資や銭貨の算用が蔵本瑞泉庵によって運営されていたことが知られ、韮山城砦と四日町は一体の存在であったとみられる。同二二年五月一〇日北条氏は「四日町八幡宮池添」の田地を願成就がんじようじゆ院大御堂十穀聖に与えている(「北条家朱印状」願成就院文書)

四日町村
よつかまちむら

[現在地名]三条市四日町・南四日みなみよつか町一―四丁目・西四日にしよつか町一―四丁目・北四日きたよつか町・由利ゆり条南じようなん町・南新保みなみしんぼ

信濃川と五十嵐いからし川の合流点近くに位置し、東は新保村、西は西本成寺にしほんじようじ村、北は五十嵐川を隔てて三条町。元和二年(一六一六)市橋長勝の三条新城の築城に伴って、新城地域の住人が五十嵐川川向いの野方を代地として与えられ、開発したことにはじまる。文禄四年(一五九五)六月一一日の直江兼続黒印状(上松文書)には、大槻おおつき庄内の村として「四日町」が記され、これが移転前の旧四日町とも考えられる。元和六年三条藩稲垣氏領となり、同年の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に「四日町村」高一八〇石とある。同九年幕府領、慶安二年(一六四九)村上藩領となり、幕末には会津藩領。

四日町村
よつかまちむら

[現在地名]真野町四日町

国府こうの川が真野湾に注ぐ河口の東側、真野湾砂丘上にある。小木おぎ街道(現国道三五〇号)の両側に南北に細長く続く町通りと、大願だいがん寺門前として享保年間(一七一六―三六)に成立した四日町新田という東西に延びる小集落からなる。また昭和三二年(一九五七)の土地交換分合により、現畑野はたの三宮さんぐうの飛地であった若宮わかみやの集落が四日町に編入された。北は金丸かなまる村、東は竹田たけだ村、西は国府川を隔てて八幡やはた(現佐和田町)、南は長石ながいし村。元禄六年(一六九三)大願寺による門前百姓の屋敷検地免除訴願(大願寺蔵)によると、慶長(一五九六―一六一五)の頃、門前集落として始まり、最初は「四日町東片町」とよばれて東側片側だけにあったという。

四日町村
よつかまちむら

[現在地名]小矢部市矢水町やすいちよう

小矢部川とその支流渋江しぶえ川に挟まれた平地に立地。北部で両川が合流。西は渋江川を隔てて蓮沼はすぬま村・ちよう村。村名は毎月四日に市が立ったことによるという(藪波村史)。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数一〇、二郎島孫次組に属する。正保郷帳では高三五〇石、田方二二町二反余・畑方一町一反、新田高六九石余。

四日町村
よつかまちむら

[現在地名]十日町市四日町

四日町新田の北に続き、集落は善光寺道沿いにある。西の信濃川対岸は千手せんじゆ(現中魚沼郡川西町)。東方下大井田しもおおいだ川上流の中条なかじよう村地籍にある池谷いけだには当村の枝村。正保国絵図中条村・高五五四石余、池谷村・高三三石余。元禄七年(一六九四)の妻有組村名書上帳(福原氏蔵)によると、寛文一一年(一六七一)に枝村「小豆島分」が、元禄二年には「向嶋新田」が開発されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報