戸田勝隆(読み)とだ・かつたか

朝日日本歴史人物事典 「戸田勝隆」の解説

戸田勝隆

没年文禄3.10.23(1594.12.4)
生年:生年不詳
安土桃山時代武将。通称三郎四郎,官途受領は民部少輔・駿河守で,名は氏繁,氏知,政信とも称したという。早くから豊臣秀吉に仕え,天正1(1573)年9月,近江国長浜のうちで250貫文を与えられ,同5年,播磨で加増され5000石となった。秀吉の馬廻りである黄母衣衆のひとりで,四国攻めの功によって伊予大洲城7万石を領している。天正18年の小田原攻めには伊豆韮山城攻撃に加わった。文禄の役では朝鮮の巨済島で講和交渉に当たるが,帰国の途次病死してしまい,子がなかったので断絶となった。

(小和田哲男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「戸田勝隆」の解説

戸田勝隆 とだ-かつたか

?-1594 織豊時代の武将。
戸田勝成(かつしげ)の兄。豊臣秀吉につかえ,馬廻りである黄母衣(ほろ)衆をつとめる。天正(てんしょう)15年四国攻めの功で伊予(いよ)(愛媛県)大津(洲)城主となり,18年小田原攻めでは伊豆(いず)韮山城(静岡県)攻撃に参加。朝鮮出兵にしたがい,巨済島で講和交渉にあたるが,帰国の途中文禄(ぶんろく)3年10月23日病死。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の戸田勝隆の言及

【伊予国】より

…【山内 譲】
【近世】
 秀吉の四国征伐後,小早川隆景が伊予国の領主となった。1587年には福島正則が湯築(ゆづき)城に,戸田勝隆が大津城(大洲城)に入った。勝隆は宇和郡内の旧領主西園寺公広を謀殺し,土豪を弾圧し(戸田騒動),太閤検地を強行した。…

※「戸田勝隆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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