唐崎村(読み)からさきむら

日本歴史地名大系 「唐崎村」の解説

唐崎村
からさきむら

[現在地名]高槻市唐崎〈なか一―四丁目・きた一―三丁目・みなみ一―三丁目・西にし一―二丁目〉・芝生しぼう町一丁目・同四丁目・玉川たまがわ一丁目・同三丁目・西面北さいめきた一丁目・唐崎

芝生村・大塚おおつか村・番田ばんだ村の南にあり、あくた川最下流右岸および淀川右岸の低湿地に位置する。南は三島江みしまえ村。淀川沿いに大坂街道が通り、集落中央を茨木いばらき街道が東西に通る。地名は古代唐船の停泊した河岬(サキ)に由来するとの説(大阪府全志)がある。天平一五年(七四三)九月一日の摂津職移(「東大寺奴婢帳」東南院文書)などに、当地の北、古曾部こそべ安満あまの近辺に比定される「野身郷」(濃味郷)に「辛矢田部君」の居住がみえるので、大陸からの渡来人の居住に関係する地名の可能性がある。「吉記」治承四年(一一八〇)一一月二五日条に「維華船於柱下称唐崎、有御宿」とみえる。「後法興院記」明応元年(一四九二)一二月三日条に「摂州中牧内辛崎村」とあり、近都牧の後身とされるなかの牧に含まれた。同条によると辛崎村はかつて近衛家から奈良春日社に寄進され、同社正真院大膳亮経頼が奉行していたが、文明一七年(一四八五)には経頼が代官職を売却し、入江与三左衛門が買得、のちさらに奥田氏が買得したというが、近衛家はこの売却の無効を主張している。入江氏・奥田氏とも三島江柱本はしらもと付近に住む国人層であり、近世の上層農民にも両姓が認められる。仲牧は古く三島にあったという上・中・下のさんまき(大阪府全志)のうち、中ノ牧にあたるといわれ、建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)の「庄務本所進退所々」のうちに摂津国仲牧とみえる。

唐崎村
からさきむら

[現在地名]千代川村唐崎

見田みだ村の南に所在。見田・唐崎・長萱おさがや伊古立いごだつの四ヵ村は一村のごとくみえるところからヶ村とよばれ、元禄郷帳にも「四箇唐崎村」とみえる。戦国期に成立したと推定される覚(宗任神社蔵)に「からさき村 五拾貫文 御年貢銭 斗物 百俵」とある。六角久頼の麾下で、近江国唐崎庄に住した修理介が、長禄二年(一四五八)頃移住し、唐崎の地名が起こったともいわれ、唐崎修理介は豊田氏とともに滅び、そのあとに遠江国中島庄より安西右京介が移住して中島氏を称したと伝えられ、「東国闘戦見聞私記」には戦国期の武将として「唐崎勘解由」がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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