向田村(読み)こうだむら

日本歴史地名大系 「向田村」の解説

向田村
こうだむら

[現在地名]能登島町向田

能登島町の中央部、南北にくびれた入江の北側に面した村。嘉吉三年(一四四三)八月の伊夜比いやひめ神社本殿造営棟札(伊夜比神社蔵)に、大檀那の守護代遊佐忠光と並んで向田村地頭の温井兵庫尉慶宗がみえる。寛正六年(一四六五)二月一三日の同社相殿神明社棟札(同社蔵)に温井小三郎忠冬が地頭とあり、明応五年(一四九六)八月一三日の伊夜比神社造営棟札(同社蔵)にも地頭温井俊宗がみえる。文明一三年(一四八一)一月一一日の能登島八ヶ村公田田数注文(伊夜比神社文書)には、一宮気多社の二斗米(段銭)賦課の対象地として七町の公田数がみえ、温井氏の知行とある。同一二年頃の向田村公田田数注文案(同文書)によると、当時同村は温井五郎右衛門の知行分で、代官は三階家吉であった。村内に一宮二斗米の賦課地となっていた寺社分として、前能登守護畠山義忠の菩提寺であった竜興寺分二町のほか、村内に所在する正法寺(八八〇刈)般若はんにや(八六〇刈)新光しんこう(一四〇刈)・二郎衛門(四九〇刈)・八幡神主(五〇〇刈)・大宮神主(四〇〇刈)・白山神主(一四〇刈)の領分があり、番頭として太郎兵衛吉次がいた。

戦国後期頃には温井兵庫尉の給地とされるが(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)、その後、天文(一五三二―五五)末年から永禄(一五五八―七〇)初年の守護畠山義綱による温井紹春暗殺を契機とした能登の内乱で温井一族がいったん没落したため、永禄元年九月一六日の伊夜比神社本殿造立棟札(伊夜比神社蔵)には地頭として池田掃部助がみえる。

向田村
むかだむら

[現在地名]烏山町向田

野上のがみ村の南、那珂川右岸にある。西の落合おちあい村境から村の中央部を南東流するあら川は、地内で川を合せ、東端で那珂川に合流する。南は黒田くろだ(現芳賀郡茂木町)など。荒川左岸には縄文時代の目矢市めやいち遺跡、江川右岸には縄文から弥生時代にかけての滝川前たきがわまえ遺跡が、また江川との合流点近くの荒川右岸崖上に向田氏の居城と伝えるなか(向田城)跡がある。文治五年(一一八九)一〇月一九日源頼朝は奥州合戦戦勝祈願成就の報賽として宇都宮(現二荒山神社)に奉幣し、併せて同宮に一庄を寄進しているが(吾妻鏡)、文明一六年(一四八四)成立の宇都宮大明神代々奇瑞之事(群書類従)によれば、これは生贄狩料所として那須庄内の五ヵ郷、ならびに日御供料所としての「森田・向田」両郷であった。年未詳の不説斎白川義親書状(滝田文書)によれば、結城義親・佐竹義重が向田村へ出陣している。

向田村
むかだむら

[現在地名]馬頭町北向田きたむかだ

那珂川東岸に位置し、北は小口こぐち村、東は和見わみ村。集落は東側段丘上にある。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高(茨城高等学校図書館蔵)に村名がみえ高二八九石余。同二一年の知行割郷帳(水戸彰考館文庫蔵)では松平志摩守の給地。慶安郷帳では田高一七六石余・畑高一九五石余、うち寺社領一石余。宝永五年(一七〇八)前年の富士山大噴火に伴う砂除金七両一分が課せられた(「砂除金納覚」大金重徳文書)

向田村
むかたむら

[現在地名]国見町向田

大熊毛おおくまげ村の南東、向田川の流域にある。南ははま(現国東町)。天和二年(一六八二)以降杵築藩分知領。小倉藩元和人畜改帳に村名が載り、小谷又右衛門知行とみえ、高二七二石余、家数四四、うち百姓本屋一一、隠居・庭屋・牛屋・名子ともに三三、人数五六、うち百姓一一・名子二、牛一二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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