古見間切(読み)くんまぎり

日本歴史地名大系 「古見間切」の解説

古見間切
くんまぎり

近世初頭、八重山に設置されていた行政区画。両島絵図帳に「こミ間切」とみえ、西表いりおもて島東半部の三離みちやーり大枝うぶだ平西ぴにしい与那良ゆなら平川ぴいさがー鬚川ぴない崎枝さきだ七ヵ村と、鳩間ぱとうま村・小浜くもー村からなり、間切高一千九九六石余。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳も同高で、うち田方一千八七七石余・畠方九七石余・桑役二〇石余。崇禎元年(一六二八)の三間切制で古見間切は解消され、大浜ほーま間切に編入された鳩間村以外は石垣いしやなぎい間切に属した(八重山島年来記)

古見間切
こみまぎり

大島の北部南側に位置する。大島七間切の一つで、小見間切などとも記される。琉球王国の地方行政単位で、近世にも継承され、古見方・瀬名せな方の二方に区分されていた。現在の龍郷町南部から名瀬なぜ市南部にわたる地域。コミは米に由来する地名という説があるが、湾入した地勢にかかわるともいう。地元ではヒギャンコミともよばれ、大島の西端の西古見にしくみ(現瀬戸内町)に対応している。源平合戦に敗れた平家の落人が喜界きかい島から大島に渡海して領知、うち平行盛が戸口とうぐちを拠点に古見間切・住用すむゆう間切を支配したと伝える(安永二年「平家没落由来記」奄美大島史)

古見間切
こみまぎり

大島七間切の一つで、小見間切などとも記される。琉球王国の地方行政単位で、近世にも継承された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報