千早城跡・赤坂城跡(読み)ちはやじようあと・あかさかじようあと

日本歴史地名大系 「千早城跡・赤坂城跡」の解説

千早城跡・赤坂城跡
ちはやじようあと・あかさかじようあと

南北朝内乱期に南朝軍のなかにあって重要な役割を果した楠木一族が、その本貫地内に築いた城郭。「太平記」などにより、楠木正成が知将ぶりを縦横に発揮し、幕府・北朝の大軍に苦戦を強い大きな被害を与えた城として著名である。赤坂城は上下の二城があり、下赤坂しもあかさか城はさらに南北二つの郭よりなっていて、千早・赤坂城は少なくとも四つの城郭群によって構成されていた。三城ともほぼ北西流する千早川流域にある。かつて千早川は、その東側を流れる足谷あしだに川、同じく水越みずこし川を合流して石川に注ぐまでを東条とうじよう川とよんだ。楠木氏については不明な点が多いが、永仁三年(一二九五)東大寺領播磨国大部おおべ庄の百姓らが東大寺に提出した申状(筒井寛聖氏所蔵文書)に、楠河内入道らの非法が記される。この楠河内入道は、正成の父祖かその一族であろうといわれる。また正成の本拠地赤坂は、水銀の原鉱で朱の原料ともなる辰砂や、金剛砂の産地で、楠木氏はこの採掘権を握り奈良・京都などに売りさばいていたとする説がある。

楠木氏の居館は千早川の東側、桐山きりやまの丘陵北端部に営まれており、同川流域の平地を北の方角に見下ろす地形上にある。元弘元年(一三三一)春から夏にかけての頃、後醍醐天皇の討幕計画に呼応して、楠木正成は和泉国大鳥郡若松わかまつ(現堺市)内で兵糧米の強制的徴発を行って「悪党」呼ばわりされて歴史上に姿を現したが、その年の秋になって正成は下赤坂城で挙兵した。下赤坂城(国指定史跡赤坂城跡)は居館の北西方、千早川西岸の森屋もりやにあり、甲取かぶとり山とよばれる標高一八六―二〇〇メートルの丘陵先端部に築かれたもので、六〇〇メートルを隔てて上甲取かみかぶとり山・下甲取山の二つの郭よりなる。「太平記」巻三(赤坂城軍事)に「山田の畔重々に高し」とあるように城の周辺には耕地もあり、他の城跡と比較して低地面との比高が少なく、もともと要害堅固な城ではなく、短期間の防衛を目的とした居館に近いものであったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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