北長田村(読み)きたながたむら

日本歴史地名大系 「北長田村」の解説

北長田村
きたながたむら

[現在地名]筑後市北長田

尾島おしま村の東、矢部やべ川中流右岸に位置する。もとは長田村と称したが、元禄国絵図作製時に同郡同名の村(現瀬高町)と区別するため北長田村と改称(「元禄記」新有馬文庫)平家一族が伝えたという紺屋業(藍染)を行うので、古くから紺屋長田こうやながたともいう(古川むらの生いたちの記)中世長田庄に含まれたものとみられる。建武四年(一三三七)八月二三日、北朝方の佐竹義尚方の荒木家有と南朝方の平津氏・溝口氏の軍が長田河原で戦った(同月二五日「荒木家有軍忠状」近藤文書/南北朝遺文(九州編)一)。元和六年(一六二〇)矢部川が藩境となって長田村が南北に分断された。薩摩街道に沿う。かつては宿駅で、北長田平和塔碑文書抜(野田陣太郎氏調査記録)に「肥後往還、火打刎、渡船宿場」とあり、矢賀部家文書記録中には「宿長田」と記される(稿本八女郡史)

北長田村
きたながたむら

[現在地名]粉河町北長田

葛城(和泉)山脈の南麓、松井まつい川の北東部に位置し、東は藤井ふじい猪垣いのかけの両村、南は長田中ながたなか村、西は北志野きたしの村に接する。「続風土記」は「荘中通して土地平曠にして沃腴なれは、長田の名虚からす、此地は古の那賀ノ郷の中にして長田ノ荘の名は則古の那賀の名の存せるなり」と記し、さらに「此村長田ノ荘の本村といふ」と記す。明徳四年(一三九三)に作製されたと思われる井上庄絵図(随心院蔵)に、深田ふけだ(現松井川)が西流する辺りの北部、当地辺りに、井上いのうえ本庄内に「北村在家」とあり、当村は中世には井上本庄に含まれた地で、北村とよばれていたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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