長田庄(読み)おさだのしよう

日本歴史地名大系 「長田庄」の解説

長田庄
おさだのしよう

遺称地・比定地は不明であるが、庄内に建部たけべ郷・賀茂かも郷・紙工しとり保などが含まれるので、御津町西部から加茂川かもがわ町南部の宇甘うかい川流域と建部町の旭川右岸一帯に推定される。

嘉暦元年(一三二六)六月一八日の当庄本家職を京都蓮華峰れんげぶ(跡地は現右京区)に寄進した前石見守繁広寄進状(古文書集)によると、冷泉為能子が京都最勝光さいしようこう院に寄進、領主職は邦繁の子孫が相伝した。正安年間(一二九九―一三〇二)室町院領亀山上皇に継承された際に同院領に混入され没収された。返付を求め幕府・朝廷に訴えたが、のち後宇多上皇によって京都大覚寺大金剛院に寄進され、蓮華峰寺寺用に充てられた。そこで訴訟を止め、格別の計らいで本家職は大金剛院に寄進し、領家職は繁成の子々孫々が知行することとしたという。本家役の蓮華峰寺寺用分として毎年銭貨三万疋(河内・新山両村定)、ほかに最勝光院寺用、紀州高野山光台院供料を出した。地頭職は伊賀(式部)氏が相伝、文永五年(一二六八)二月二日、庄内の非御家人・凡下が領名を売得するとの式部職綱の訴えに対し、幕府はもとのように職綱の領掌を命じている(「新編追加政所篇」沽却商賈条)

長田庄
ながたのしよう

現長田から矢部やべ川右岸の筑後市北長田にかけての一帯に比定される。永保三年(一〇八三)安楽寺(太宰府天満宮)安養あんよう院に長田庄四〇町二丈が寄進された(安楽寺草創日記)。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状には筑後国一円の安楽寺領のうちに長田庄がみえ、またその注記から当時凶徒押領の地となっていた。応永二年(一三九五)閏七月二五日の天満宮領筑後国所領注文(太宰府天満宮文書/大宰府・太宰府天満宮史料一二)に不輸庄としてあげられており、同三年九月二二日には道徹(菊池武朝か)は長田豊前守に対し、天満宮領長田庄三分の一などへの違乱を停止するよう命じ(「道徹書状」同上)、同六年にも長田助世に対しほぼ同様の命令を出しているが(同年七月一二日「菊池武朝書状」同上)、長田氏側の抵抗も大きかった。

長田庄
ながたのしよう

現上野市長田を中心とした地に比定される。紀伊国金剛峯寺大塔事始日記(高野山文書)久安五年(一一四九)七月九日条には、到着した五人の杣工のうちに「伊賀国長田庄一人」が記される。その後の経由から、平家所領として六条院に寄進されたと思われる。平家滅亡で没官領の一つとなったが、源頼朝は寿永三年(一一八四)四月五日、旧家領一七ヵ所を池頼盛に返付した(吾妻鏡)。そのなかに当庄も入っている。

承久三年(一二二一)閏一〇月二五日には、承久の乱の戦功として、幕府より島津忠義長田郷の地頭職が与えられた(関東下知状)

長田庄
ながたのしよう

坂井平野中央部の現坂井町東長田と現春江町西長田に比定される。建暦二年(一二一二)九月付の越前気比宮政所作田所当米等注進状(越前気比宮社伝旧記)の「別沙汰并押領対捍所々」の項に

<資料は省略されています>

とあり、元来は気比けひ(現敦賀市)に付与された封戸が保に便補されたもので、「長田小森」と併称されていたものである。ちなみに平安末期から鎌倉初期、気比社は八条女院領であり(内閣文庫蔵山科家古文書、安元二年二月付八条院領目録)、領家職は藤原摂関家によって相伝されていた。右注進状にみえる本家・領家はこれに対応するものであろう。

長田庄
ながたのしよう

現西伯町の南半部、法勝寺ほつしようじ川の上流域および同川支流の東長田ひがしながた川・山田谷やまだだに川の流域一帯に比定される九条家領庄園。建久元年(一一九〇)一一月六日源頼朝が上洛することを聞きつけた大舎人允藤原泰頼は「伯耆国長田庄得替事」について愁訴するため頼朝が投宿していた近江野路のじ宿(現滋賀県草津市)に押しかけている(「吾妻鏡」同日条)。泰頼が以前所持していた当庄下司職ないしは地頭職を幕府によって没収されたためのことと思われる。九条兼実譲状抄(九条家文書)によると当庄は京都六勝寺の一、法勝ほつしよう寺を本家として花山院兼雅から九条兼実に譲られ九条家領となった庄園で、兼実は元久元年(一二〇四)四月二三日長子故良通の室御堂御前(兼雅の娘)に当庄などを譲っている。

長田庄
おさだのしよう

安倍あべ川下流右岸、現小坂おさか広野ひろの両地区を含む地域に比定される庄園。駿河国長田庄本家・領家等相伝系図(潮崎八百主文書)によると、本家は美福門院(鳥羽天皇皇后)、次いで源頼朝、領家は紀州那智山。保延六年(一一四〇)に美福門院から那智山に寄進された(「長田庄知行次第写」米良文書)。嘉吉元年(一四四一)四月二二日の足利義教御判御教書(熊野夫須美神社文書)によると、那智山は「長田庄」の段銭等を免除されている。紀州熊野旦那職の売買に関する観応二年(一三五一)四月五日の浄範契状(米良文書)の追筆に「長田にての状」とあり、当地から出された可能性が高い。長享二年(一四八八)九月二八日、伊勢盛時(北条早雲)は当庄内新田分を那智山に返却している(「伊勢盛時避状写」熊野夫須美神社文書)

長田庄
ながたのしよう

尾上町長田おのえちようながたを遺称地とする庄園。正中三年(一三二六)鶴林かくりん寺法華堂(太子堂)修理には、長田村の大工左近入道覚性と子息・舎弟の計五名が従事した。またこの頃の同寺講堂の二和尚加賀公・三和尚豊前公は長田出身であった(太子堂木部銘)。長享三年(一四八九)四月二日、所司代浦上則宗は自らの知行分の長田庄を赤松方を助けた安芸国の国人吉川経基に預けている(「浦上則宗書状」吉川家文書)。永正一二年(一五一五)八月日の鶴林寺寺料田惣目録(鶴林寺文書)には寄進散田のうちに長田庄の公文・下司・長田村住人らが三反から一五代を寄進しており、承仕散田のうちには長田の作人八名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報