北野天神社(読み)きたのてんじんしや

日本歴史地名大系 「北野天神社」の解説

北野天神社
きたのてんじんしや

[現在地名]所沢市北野

狭山丘陵北側、北野地区のほぼ中央にある。旧県社。法人名は物部天神国渭地祇天満天神もののべてんじんくにいちぎてんまんてんじん社で、三社を総称して北野天神社という。主祭神物部天神社は櫛玉饒速日命、国渭地祇神社は八千矛命、天満天神社は菅原道真。創建の時期は不明。「延喜式」神名帳所載の入間いるま郡五座のうち「物部モノヽヘノ天神社」は物部天神社に「国渭地祇クニヌマノクニツカミ神社」は国渭地祇神社に比定される。ただし国渭地祇神社の本来の鎮座地は明らかではなく、後世合祀されたものであろう。天満天神社は武蔵国主菅原修成が先祖の霊夢により長徳元年(九九五)京都北野社を勧請したという。建久六年(一一九五)には源頼朝により正八幡が勧請され、また式内諸神が勧請されてしよ神社となったと伝える。

応永四年(一三九七)八月二五日の足利氏満寄進状(当社文書)には「武蔵国北野天□□□」に山口やまぐち郷内の田畠在家等を寄進するとあるが、同状は検討の余地がある。天文一一年(一五四二)二月一五日には山内上杉氏家臣で滝山たきやま(現東京都八王子市)城主の大石道俊から神主職が安堵されている(「大石道俊書状写」武州文書)

北野天神社
きたのてんじんしや

[現在地名]城端町北野

利波となみ川と小谷谷おたにだに川との合流する右岸にあり、北野天満宮とも称し、旧村社。祭神は菅原道真。貞享二年寺社由緒書上に「当社礪波郡之為惣社、礪波天神と称し、社前を流る川を礪波川と云。又北野天神共申に付、在名を北野村と云。草創之年暦不相知」とある。利波山北野天満宮縁起(社蔵)では最初は吉松島よしまつじまに奉祀してあったが、天正一三年(一五八五)今の地に移したとしている。また「古者七間四面之社にて、一郡之氏子共三月廿五日之祭礼に致集来、流鏑馬猿楽等相勤」とある(越中志徴)神事は修験道山伏海乗かいじよう寺が勤めた。海乗寺については文政七年(一八二四)の礪波郡持宮書上帳(河合家文書)に「拙寺先祖平家ノ落人稲垣嘉右衛門ト申者、越中国礪波郡二ツ屋村ト申処ヘ罷越、真言宗ニ相成、大森房ト名改メ小庵ヲ建立」とあり、文明一三年(一四八一)直海なおみ木之神社に移り、貞享三年(一六八六)直海山海乗寺の号が免許されたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報