猿楽(読み)さるごう

精選版 日本国語大辞典 「猿楽」の意味・読み・例文・類語

さる‐ごう ‥ガウ【猿楽】

〘名〙 (「さるがく(猿楽)」の変化した語)
※宇津保(970‐999頃)蔵開上「藤宰将、『この君も舞ひ給ふものを』とて、さるがうする人にて、亀舞をす」
② 滑稽な言動をすること。おかしなかっこうをすること。おどけること。たわむれ。
※枕(10C終)一四三「口ひき垂れて、知らぬことよとて、さるがうしかくるに」

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デジタル大辞泉 「猿楽」の意味・読み・例文・類語

さる‐がく【猿楽/申楽/散楽】

平安時代の芸能で、一種のこっけいな物まねや言葉芸。唐から伝来した散楽さんがくに日本古来のこっけいな技が加味されたもの。相撲節すまいのせち御神楽みかぐらの夜などの余興に即興で演じられた。
平安時代から鎌倉時代にかけて、寺社に所属する職業芸能人(猿楽法師)が祭礼などの際、1を街頭で行ったもの。
平安時代以降、諸大寺で、呪師じゅしの芸能(広義には猿楽の一種)のあとに1が演じられたもの。
中世以降、23が演劇化して能・狂言が成立したところから、明治初期まで能・狂言の古称。→狂言

さる‐ごう〔‐ガウ〕【猿楽】

《「さるがく(猿楽)」の音変化》
さるがく」に同じ。
様々やうやうこと、琵琶、舞、―を尽くす」〈梁塵秘抄口伝・一〇〉
おどけ。たわむれ。じょうだん。
「口を引き垂れて、知らぬことよとて、―しかくるに」〈・一四三〉

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改訂新版 世界大百科事典 「猿楽」の意味・わかりやすい解説

猿楽 (さるがく)

日本の古い芸能の一種。その芸態はいちがいにはいえない。申楽と記すこともある。平安期では曲芸,滑稽(こつけい)なしぐさ芸,掛合芸,物まね芸などをいい,平安末期には筋立てのはっきりしたものになったようである。鎌倉期には楽劇的要素を加え,室町初期にはせりふ劇プラス歌舞芸として,現在の能の祖型が完成する。これらはすべて猿楽と総称されるが,鎌倉期までのものを,古猿楽ということもある。

〈さるがく〉の名称は,中国(唐)伝来の〈散楽(さんがく)〉に発するとされる。中国の〈散楽〉(雑技)は祝宴や盛場で演じられた曲芸や手品の総称であり,漢代から行われた。正倉院御物中のいわゆる《弾弓(だんぐう)散楽図》によると,唐代には,奇術・曲芸の類などに歌舞・音楽をも加えた,さまざまの芸能をも含んでいたことがわかる。信西(しんぜい)の編あるいは模写とされる《信西古楽図》も散楽の芸態をしのぶ一つの手がかりになろう。散楽は奈良期に日本に伝来し,舞楽の一部に演奏されたりした。朝廷では〈散楽戸〉を設けて,散楽者の養成を行った。782年(延暦1)〈散楽戸〉は廃止されたが,相撲節会すまいのせちえ),御神楽(みかぐら),遊宴などの際に近衛府の役人によって演ぜられた。中国伝来の伎楽が早く衰えるのに対して,民間の職業散楽者が盛んになっていったからである。民間に入った散楽は日本古来の滑稽・諧謔(かいぎやく)を主とする雑芸と入りまじり,しだいに勢力を増していった。表記も〈さるがく〉〈さるがう〉〈猿楽〉などと見え,〈さるがうこと〉(《枕草子》104段),〈さるがうがまし〉(《源氏物語》少女)などという用例が,滑稽なしぐさやせりふを意味するのは,当時の〈さるがく〉の芸態の変貌をものがたっていよう。平安末期の藤原明衡(あきひら)の《雲州消息》や《新猿楽記》にも同じ事情をものがたる記載がある。《新猿楽記》には,〈呪師(しゆし)〉〈侏儒舞(ひきうどまい)〉〈田楽(でんがく)〉〈傀儡くぐつ)〉などをも含み,猿楽が諸雑芸の総称ででもあったらしいことが知られるとともに,その記載の題目から,物まね芸を主軸として笑いを誘う類の芸,のちの〈狂言〉の源流となる性格のものを,多分に含んでいたことが知られる。平安末期の猿楽は,いわば物まね系統の芸と,せりふ劇系統の芸を主とするものであったが,鎌倉期にはいると,延年の風流(ふりゆう),連事(つらね),答(当)弁(とうべん),あるいは《式三番》(《翁》)に付属する狂言風流などから類推して,歌舞劇系統の芸が進出したらしく思われ,それらは,総合的に発達していったようである。せりふ劇系の芸は〈狂言〉を確立していくことになるが,猿楽がせりふ劇の要素を捨てたわけではない。鎌倉末期から南北朝を経て室町期にはいるあたりに大成される猿楽,すなわち現在の能の祖型は,だから,実にダイナミックな構成をもつのであるが,その要素となるものを挙げるならば,およそ,次のようになろうか。

 まず〈田楽〉〈延年〉との交流,ついで本来,やや別系統であった《式三番》の吸収,それに舞楽や神楽の流れを経て大道芸化していた獅子舞・羯鼓(かつこ),大道芸のささら(簓)・八撥(やつばち),唱導芸など説法的話芸・声明(しようみよう),小歌がかりのメロディを主流に,早歌(そうが)・曲舞(くせまい)・平家語り(平曲)などの吸収である。これらが総合されて,メロディ楽器として横笛(いわゆる能管),リズム楽器として小鼓・大鼓・太鼓をともなう,歌舞・音曲・せりふ劇が大成するのである。これを猿楽能と呼んでいいであろう。

 平安期,猿楽者の中には神社や寺院に属して法会や祭礼に参勤し,法呪師(呪師)の役を代行する呪師猿楽と呼ばれる存在があった。また南北朝から室町初期にかけて猿楽者の集団は座の体制をとるようになり,各地に猿楽の座が存在した。なかでも大和猿楽の四座,近江猿楽六座が名高く,ことに大和の結崎(ゆうざき)座の観阿弥世阿弥父子によって今日の能の基礎が固められるのである。

当時の有名な役者たちを挙げると,〈田楽〉の一忠・花夜叉・喜阿弥・高法師(松夜叉)・増阿弥(〈田楽〉も猿楽とさして距離をおかぬものであって,世阿弥伝書にも総合的に論じられている),近江猿楽の犬王(いぬおう),大和猿楽の金春権守(こんぱるごんのかみ)・金剛権守などである。喜阿弥は音曲(謡)の名手,閑寂な能を演じ,世阿弥が少年時代に瞠目(どうもく)して観覧し,のちのちの語りぐさにしたという。その作曲法や音曲技巧は,大和猿楽にもとり入れられた。一忠は観阿弥が〈我が風体の師也〉(《申楽談儀》)とたたえ,増阿弥は,世阿弥が〈感涙も流るるばかり〉〈冷えに冷えたり〉(同書)と,その次元の高さを伝えている。金春・金剛両権守は,よく本国大和の体質を伝え,急速に幽玄化していく当時の猿楽界では,〈田舎の風体〉(同書)と見られたが,技(わざ)の達者ではあった。およそ,近江猿楽は幽玄,大和猿楽は物まねを,その体質としてもち,理念としてもそれを提唱したのである。大和の観阿弥・世阿弥父子は,1375年(永和1),京洛今熊野の演能で,足利義満に見いだされてからは,室町御所に勤仕し,北山文化圏に参画すべく,大和猿楽本来の物まね芸を根幹としながら,幽玄的理念を具現しようとする志向をことさら強くし,意味を即物的に表現する所作的なハタラキ(働)に,舞踊的な舞の手ぶりを加え,現行の舞事(まいごと)(序ノ舞,神舞(かみまい)など)の祖型を近江猿楽からとり入れるなどした。そして,いわゆる〈複式夢幻能〉(夢幻能)を生み出していった。先述の今熊野の能に,将軍家お成りを契機として南阿弥(なあみ)の意見で,一座の大夫たる観阿弥が《式三番》を勤めたころから,寺社の〈翁猿楽〉に出仕するグループ(その大夫を長(おさ)と称した)の独立性・必要性がうすれていくのである。

 このように猿楽能の大成に力を尽くしたのは観阿弥・世阿弥父子であるが,なんといっても,観阿弥における小歌がかりのメロディと,早歌のリズム(拍節理論)の結合,世阿弥における幽玄化の推進と複式夢幻能の確立・昇華という内的拡充,南都の春日神社・興福寺,多武峰(とうのみね)の談山神社・妙楽寺,それに室町幕府の庇護という外的条件が,この系統を正統化し,永続させるエネルギーとなるのである。世阿弥の長男観世元雅は,現世に生きる人間の魂の極限状況を叙すことをライフワークとし,世阿弥の女婿金春禅竹は,実作,理論ともに,岳父の世界の延長線を描いて,両人ともに卓抜である。このあたりが,猿楽能の第1次完成期であろう。

 現在は当時の大和猿楽の流れとして,金春流(円満井(えんまい)座),観世流(結崎(ゆうざき)座),宝生流(外山(とび)座),金剛流坂戸座)の四座の末裔(まつえい)を残すのみで(喜多流は江戸初期の建流),弱体化した座は滅亡するか,四座のどこかに併呑(へいどん)されてしまうのである。
狂言 →田楽 →
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「猿楽」の意味・わかりやすい解説

猿楽
さるがく

平安・鎌倉時代に栄えた芸能で、室町前期以後は現在の能楽の古称として用いられてきた。奈良時代に中国から渡来した散楽(さんがく)の芸系を受ける。散楽は、中国では民間雑芸(ざつげい)の総称で百戯(ひゃくぎ)とも称され、歌舞物真似(かぶものまね)のほか曲芸軽業(かるわざ)、奇術魔法なども含む幅広い芸態をもつものであった。日本では初め国家が保護したが、しだいに一般に普及して、平安初期には国立教習所は廃止され、やがて名称も日本化して猿楽とよばれるようになった。これは、サンがサルと音韻変化した際に物真似(ものまね)上手な猿が連想されたものであろうといわれるが、また散楽のなかに人間が猿に扮(ふん)した芸があったためだとする説もある。

 猿楽は、宮中でも相撲節会(すまいのせちえ)などの余興として近衛府(このえふ)の下級官人らによっても演じられたが、その主流は民間に流れ、職業的猿楽者を生むに至った。平安中期に書かれた藤原明衡(あきひら)著『新猿楽記』には、呪師(のろんじ)、侏儒舞(ひきひとまい)、田楽(でんがく)、傀儡師(かいらいし)、唐術(とうじゅつ)、品玉(しなだま)、輪鼓(りゅうご)、八玉(やつだま)、独相撲(ひとりすまい)、独双六(ひとりすごろく)その他があげられていて、なお猿楽の名称のもとに古代散楽の広範な芸能を含んでいたことを想像させる。しかしそこには、僧侶(そうりょ)が袈裟(けさ)を探したり、尼が自分の子供の襁褓(むつき)(おむつ)を請い歩いたりする、後代の狂言を思わせる寸劇の演じられていたことも記され、猿楽の総評として「嗚呼(おこ)の詞(ことば)は腸(はらわた)を断ち頤(おとがい)を解かずということなきなり」と書かれていることから、滑稽(こっけい)な物真似の芸が中心をなしていたと考えられる。ところがその後、曲芸軽業の芸は田楽が演じて、奇術魔法の類は傀儡師が専業として、猿楽から独立していった。一方、職業的猿楽者の多くは大きな寺院や神社などに隷属し、その祭礼などに奉仕していたので、密教的行法のなかで従来は僧侶が行っていた芸能的要素の強い部分、たとえば『新猿楽記』が諸芸能の最初にあげている呪師(じゅし)の芸などを勤めるようになり、さらに鎌倉時代に入ると、音楽的読経である声明(しょうみょう)や仏教話芸ともいえる説教、あるいは大寺院での法会(ほうえ)後の余興大会で演じられた延年風流(えんねんふりゅう)などの影響を受けて、猿楽はしだいに、まじめな歌舞劇である能と、滑稽な科白(かはく)劇である狂言とに分離し、それぞれの芸態を確立していく。

 やがて室町時代の初め、観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子らによって、猿楽は今日の能楽に近い姿に整えられ、能と狂言の交互上演の形式も定まった。世阿弥は『風姿花伝(ふうしかでん)』に「上宮(じょうぐう)太子、末代のため、神楽(かぐら)なりしを、神といふ文字の偏を除(の)けて、旁(つくり)を残し給ふ。是(これ)、日暦(ひよみ)の申(さる)なるが故に、申楽(さるがく)と名づく。すなはち、楽しみを申すによりてなり。又は神楽を分くればなり」とその成立を権威づけ「申楽」と表記したが、室町・江戸両時代を通じ一般には伝統的な「猿楽」の表記を用いてきた。しかし、明治期に入って「能楽」と改められた。1881年(明治14)華族を中心に設立された能楽社の「設立之手続」のなかに「前田斉泰(なりやす)ノ意見ニテ猿楽ノ名称字面穏当ナラサルヲ以(もっ)テ能楽ト改称シ……」とあるので、貴族社会を代表する芸能として「猿」の字の野卑な印象を嫌っての改称であった事情がわかり、その時期は1879、80年ごろと推測できる。以後、急速に「能楽」の名が普及し、「猿楽」の呼称は滅びた。

[小林 責]

『林屋辰三郎著『中世芸能史の研究』(1960・岩波書店)』『後藤淑著『能楽の起源』(1975・木耳社)』

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百科事典マイペディア 「猿楽」の意味・わかりやすい解説

猿楽【さるがく】

古代,中世に盛んに行われた芸能。〈さるごう〉ともいい,散楽,申楽,散更などとも書かれた。中国伝来の散楽と日本古来の歌舞や物真似よりなり,演目は広範囲で,曲芸や奇術なども含んだ。鎌倉期に田楽風流の影響を受け今日のの基礎となるものとなった。やがて舞歌中心のまじめなものは猿楽の能に,せりふ中心の滑稽(こっけい)なものは猿楽の狂言となり,今日の能と狂言となった。
→関連項目演劇延年神楽観阿弥看聞日記狂言佐々木高氏新猿楽記吹田鳥養牧服部幸雄東山文化宝生流道々の者大和猿楽

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「猿楽」の意味・わかりやすい解説

猿楽
さるがく

日本の古代,中世芸能の一つ。中国から伝わった「散楽」の転化した名称と考えられ,「さるごう」ともいい,「散楽」「散更」「申楽」などとも記される。平安時代においては,内容は中国の流れをくむ散楽と日本固有の卑俗な滑稽物まね,歌舞であった。平安時代中期の『新猿楽記』は,猿楽の芸能の曲名をあげており,散楽系の曲芸,軽業,呪師,田楽,傀儡子などと,当時の風俗に取材した滑稽な物まねから成っていた。のち猿楽は,次第に物まねを中心としたものとなり,鎌倉時代には劇的な内容をもった猿楽の能を生み出した。猿楽は滑稽な物まねのせりふ劇である狂言と,まじめな内容で歌舞に重点をおいた能とに分れ,能は室町時代に大和猿楽の観阿弥が曲舞 (くせまい) などの先行芸能を取入れ,その子世阿弥は歌舞中心で幽玄なものに大成させ,田楽などの諸芸能を圧倒し,武家の式楽となって隆盛を迎えた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「猿楽」の解説

猿楽
さるがく

「さるごう」とも。申楽とも。古代・中世の芸能。散楽(さんがく)が源流。奈良時代以前に中国から伝来した散楽は,曲芸・幻術・歌舞・滑稽技を含むものであり,宮廷では相撲節(すまいのせち)や神楽(かぐら)の余興などとして衛府官人によって行われた。これらは舞楽,あるいは即興的な滑稽技として発展した。平安中期には散楽・散更とも称された。また民間で成長した雑芸や滑稽技を専業とする芸能者が田楽・傀儡(くぐつ)などとともに「新猿楽」とされ(「新猿楽記」),国風化した猿楽が誕生したことがうかがえる。このような内容的に雑多なものを含んだ猿楽は,以後さまざまな芸能の影響をうけ,猿楽能と猿楽狂言として成長した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「猿楽」の解説

猿楽
さるがく

古代〜中世にかけて流行した演芸
散楽・申楽・散更 (さるごう) ともいう。狭義には能楽の別称。奈良時代に唐から伝来。平安時代,神楽の余興として宮廷に入った。民間では寺社に隷属し,滑稽な物まねを主とした。鎌倉時代に歌舞的要素を加え猿楽の能に発達,物まねは猿楽の狂言として併行した。室町時代にかけて,丹波・伊勢・近江・大和などで盛んとなり,特に大和四座の一つ結崎 (ゆうさき) 座から観阿弥・世阿弥父子が出て,足利将軍家の保護のもと,田楽能や曲舞 (くせまい) をとり入れ猿楽の能を大成させた。

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世界大百科事典(旧版)内の猿楽の言及

【嗚呼∥烏滸】より

…この滸人を《後漢書》などにいう(おこ)の国(南蛮の愚かな風俗をした国)の人とする説が古来行われているが,ここはオコな人と考えてよい。散楽は当時行われた雑芸で曲芸,軽業,滑稽な物真似,侏儒舞(ひきひとまい),傀儡子(くぐつ),滑稽な対話芸などがあったが,〈今日の事散楽の如し〉(《小右記》)などのように滑稽の代表のようにも考えられ,さらに猿楽(さるがく∥さるごう)ともいわれて,滑稽なことを意味するふつうのことばともなった。猿楽と書かれるようになるには,大嘗祭・鎮魂祭の神楽の舞などに奉仕した猿女(さるめ)の故事と混交したためと考えられるが,それは散楽のようなオコな行為が古代の芸能・祭式にともなっていたためと思われる。…

【延年】より

…室町期の南都の延年については《室町殿御翫延年等日記》《管絃講幷延年日記》等の資料が伝存しており,当時の延年のさまを詳細に知ることができる。
[児舞と猿楽]
 一口に延年といっても,そこで演ぜられた芸能は単一ではなく,またおのずから変遷もあった。すなわち,鎌倉初期における延年芸としては児(ちご)の舞と大衆(だいしゆ)の猿楽とがあった。…

【嗚呼∥烏滸】より

…この滸人を《後漢書》などにいう(おこ)の国(南蛮の愚かな風俗をした国)の人とする説が古来行われているが,ここはオコな人と考えてよい。散楽は当時行われた雑芸で曲芸,軽業,滑稽な物真似,侏儒舞(ひきひとまい),傀儡子(くぐつ),滑稽な対話芸などがあったが,〈今日の事散楽の如し〉(《小右記》)などのように滑稽の代表のようにも考えられ,さらに猿楽(さるがく∥さるごう)ともいわれて,滑稽なことを意味するふつうのことばともなった。猿楽と書かれるようになるには,大嘗祭・鎮魂祭の神楽の舞などに奉仕した猿女(さるめ)の故事と混交したためと考えられるが,それは散楽のようなオコな行為が古代の芸能・祭式にともなっていたためと思われる。…

【芸能】より

…701年(大宝1)には雅楽寮の制が成り,外来楽を基盤としての楽人,舞人の養成が国家的規模で行われ,平安時代には管絃,舞楽(雅楽)が宮廷や大寺の儀式に欠かせぬものとなった。 また,散楽は曲芸,幻術,物真似などを含み宮廷の饗宴の余興にも演じられたが,また民間にも流布して,猿楽(さるがく)とよぶ芸能を生んだ。平安中期に著された藤原明衡の《新猿楽記》には,猿楽を専業とする芸人が京の稲荷祭の雑踏の中で滑稽猥雑な寸劇や曲芸,さらには傀儡(くぐつ),田楽(でんがく)などの芸も演じて人気を博したとあるが,傀儡は人形まわしで,当時これを中心に歌舞,幻術,曲技などをもって各地を巡回する芸能集団も別にあった。…

【日本音楽】より

…また,宮中の祭祀楽も御神楽(みかぐら)として,その形態が整えられ,雅楽の中に含まれるようになった。これらは貴族の音楽であるが,民衆の音楽としては田楽(でんがく),猿楽(さるがく),雑芸(ぞうげい)などが行われた。雑芸の歌謡の中には,貴族の間の流行歌謡ともなった今様(いまよう)も含まれる。…

【庭者】より

…室町時代に活躍した河原者(かわらもの)の別称の一つ。また,江戸時代には徳川将軍家に仕え,白衣で江戸城の奥庭の清掃や将軍の身の警備に従事するとともに,秘密情報の収集・提供を行った〈御休息御庭之者(ごきゆうそくおにわのもの)〉(ふつうには庭番(にわばん),御庭番(おにわばん)といった)のことをさし,さらには〈猿楽師(能役者)〉に対する軽侮の念のこもった言葉として使われた語。別にまた,江戸時代に各地の農家に代々隷従奉仕した貧農をさす〈庭子(にわこ)〉の語とも同義に用いられた場合がある。…

【能】より

…日本芸能の種目名。通常,猿楽能を指す。広義には歌舞劇の一般名で,ほかに田楽能(でんがくのう)(田楽)があり,延年の歌舞劇を便宜上,延年能と呼ぶこともある。…

【舞】より

…その媒体となったのが,奈良・平安時代に輸入され普及した外来の楽舞――伎楽(きがく),舞楽(ぶがく),散楽(さんがく)であった。伎楽は早くに滅びたが,その師子(しし)の芸は,二人立ちの獅子舞となって民俗芸能に大きな分野を占め,舞楽は平安時代に著しく日本化され,のち,延年(えんねん)や猿楽能(能)の舞に影響を与え,散楽は,田楽(でんがく)や猿楽を育てる大きな要素となった。
[延年の舞]
 延年は,興福寺や延暦寺などの近畿の諸大寺をはじめ,各地の寺院で行われた芸能で,平安末から鎌倉時代にかけて栄えた。…

※「猿楽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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