北里村(読み)きたざとむら

日本歴史地名大系 「北里村」の解説

北里村
きたざとむら

[現在地名]小国町北里

北里川沿いに集落があり、標高約四八〇メートル。北は明里あかり村に接する。元徳二年(一三三〇)二月二三日の阿蘇社造営料木注文写(阿蘇家文書)には、阿蘇社造営に際して「北里後家尼方」として料木二本と、北里として料木六本を負担している。正平七年(一三五二)二月吉日の阿蘇社上葺等次第(同文書)によると、二宮裏面の上葺を負担している。同一八年閏一月二五日の阿蘇社造営料木納帳(同文書)では、「きたのさと」および「きたのさと御れう所」(御料所)とみえ、こみ桁・貫・梁などを負担していた。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同文書)には、「北里之分」のなかに近世の北里村の小村立平たてひら仁連木にれのき菅山すげやま桑津留くわづる湯山ゆやまがみえ、また「同北里下宮ニ御寄進方之分」のうち、当村の塩井川しおいがわがあり、それぞれ銭と豆を負担している。

北里村
ほくりむら

[現在地名]千代田町大字黒井くろい上黒井かみくろい

長崎街道西方に位置する。村はクリークの中央部に発展した。正保絵図に村名がみえる。嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳などに村名が現れないのは、幕末には黒井村に含めて扱われていたものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報