北川内村(読み)きたがわちむら

日本歴史地名大系 「北川内村」の解説

北川内村
きたがわちむら

[現在地名]上陽町北川内

現上陽町の南部に位置し、北部を星野ほしの川が西流する。久留米城下および豊後日田に向かう山中さんちゆう街道が星野川沿いに通り、半蔵はんぞうなど二ヵ所に一里塚が置かれていた(在方諸覚書)。応安八年(一三七五)二月日の田原氏能軍忠状(入江文書/南北朝遺文(九州編)五)によれば、応安七年一一月一五日氏能は「北河内」や黒木くろぎ(現黒木町)の南朝方を攻撃した。元中八年(一三九一)一〇月一一日北朝方の軍勢生葉いくはより当地や調山に打ち入ったが、五条頼治の手勢黒木四郎らと合戦となり、撃退されている(一二月九日「五条頼治申状案」五条家文書/南北朝遺文(九州編)六)。応永一二年(一四〇五)九月菊池武朝は求磨くま(隈府城、現熊本県菊池市)に帰参したのち坂東寺ばんどうじ(現筑後市)に出陣し、当地や近くにいた九州探題渋川満頼への攻撃をすると思われている(九月二八日「渋川満頼書状」詫摩文書/熊本県史料 中世篇五)。天正一四年(一五八六)七月島津勢の攻撃を受けた稲員安守は長延ながのぶ(現広川町)西城を脱出し、翌未明に北河内山を越えて豊後国に入り、多久たく(現熊本県鹿北町)に蟄居したという(稲員家記)

北川内村
きたかわちむら

[現在地名]相川町北川内

佐渡北西海岸線のほぼ中間に位置する。海岸低地は狭く、集落背後に段丘が迫る。海府かいふ地方の古い民謡に「後尾と川内、川がなけりや一村だ」とあるように、南はさくら川を挟んで後尾うしろお村集落と隣接し、一村の形態をなす。北は北立島きたたつしま村。加茂かも郡に属し、桜川は雑太さわた郡との郡境であった。近世前半までは川内村・河内村と記したが、正徳五年(一七一五)の石花・後尾村山境絵図(後尾区有)に初めて北川内村がみえ、以後川内・北川内の村名が混同して使用されるが、文政年間(一八一八―三〇)以降北川内村が一般的になる。

北川内川が桜川と合流する右岸段丘先端部に中世の城跡がある。桜川周辺の親方田中氏の城で、川を隔てて後尾村が一望できる。

北川内村
きたかわうちむら

[現在地名]宮崎町北川内

加美郡北端にあり、川支流のからす川沿いに人家が点在するが、田地は少ない。西と南は宮崎村、東は上多田川かみただがわ(現中新田町)、北は玉造たまつくり大口おおくち(現鳴子町)に接する。郷帳類には北河内と記される。村名は大日薬師如来があるため、かつて如来堂によらいどう村といったが、その後村内を川が北から流れているため今の名に改めたという(安永風土記)正保郷帳に田一五貫七一〇文・畑七貫九七一文とあり、ほかに同所新田二貫二五七文があり、雑木山と注記される。「安永風土記」によれば、田一八貫二三二文・畑九貫一三二文(うち茶畑九文)で、蔵入は一貫四二八文、給所は二五貫九四〇文、人頭三七人(うち沽却禿二)、家数三八(うち水呑三)、男一二二・女九八、馬七五で、牧野まきのには札場跡があり、慶安年間(一六四八―五二)に廃止となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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