佐渡(読み)さど

精選版 日本国語大辞典 「佐渡」の意味・読み・例文・類語

さど【佐渡】

[一] 北陸道七か国の一つ。越後国から分かれて大化改新後に成立。神亀元年(七二四)遠流(おんる)の地に定められ、順徳上皇、日蓮、世阿彌などが流された。天正五年(一五七七)、守護の本間氏に代わって上杉氏が領有。慶長六年(一六〇一)、相川金山が開発され、江戸幕府直轄領となった。廃藩置県後、佐渡・相川県を経て新潟県に編入。佐州。
[二] 佐渡島(さどがしま)のこと。
[三] 新潟県の地名。平成一六年(二〇〇四)、両津市と佐渡郡九町村が合併して成立した市。佐渡島(さどがしま)全域を占める。

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デジタル大辞泉 「佐渡」の意味・読み・例文・類語

さど【佐渡】

旧国名の一。北陸道に属し、現在の新潟県の一部。佐州。
佐渡島さどがしまのこと。
新潟県の佐渡島を占める市。平成16年(2004)両津市と佐渡郡九町村が合併して成立。人口6.3万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「佐渡」の意味・わかりやすい解説

佐渡[市] (さど)

新潟県佐渡島全体を占める市。2004年3月両津(りょうつ)市および相川(あいかわ),小木(おぎ),金井(かない),佐和田(さわた),畑野(はたの),羽茂(はもち),真野(まの)の7町と赤泊(あかどまり)村,新穂(にいぼ)村の1市7町2村が合体して全島で一市が成立した。人口6万2727(2010)。

佐渡市北西部の旧町。大佐渡山地の北西側海岸部にある。旧佐渡郡所属。人口9669(2000)。海岸段丘が発達し,集落は段丘面と段丘崖下の小湾頭に位置する。17世紀初め以来幕府直轄の鉱山都市として発展した。鉱山は明治になり御料局に移管され,政府は洋式工法を導入して近代化を進めた。1896年三菱鉱業に払い下げられ,1952年規模を縮小し佐渡金山株式会社が稼働採掘していたが,89年3月閉山した。新潟地方法務局相川支局,税務署,測候所が置かれ,全島の行政府の所在地である。鉱山遺跡,佐渡奉行所跡,御料局佐渡支庁跡を転用した相川郷土博物館は130余の寺とともに観光に生かされている。7月下旬の鉱山祭には全盛時代の面影を伝える諸行事がくり広げられ,〈おけさ流し〉は有名。勇壮典雅な《相川音頭》は佐渡の代表的民謡である。尖閣湾を中心とする海府,二見,七浦の海岸,相川海中公園などの景勝地が集まり,また大佐渡スカイラインの終点でもある。金山の鉱土を陶土と混ぜて焼成する無名異焼は特産である。
執筆者:

相川が金山町として成立したのは1600年(慶長5)のことである。1594年(文禄3)豊臣秀吉朝鮮出兵のための財政をまかなうため上杉景勝に佐渡金銀山(佐渡金山)の積極的な開発を命じた。1600年佐渡は徳川家康の直轄領とされ,敦賀の豪商田中清六が,他3人の奉行人とともに金銀山を支配し,03年大久保長安がそれまで鶴子(つるし)にあった陣屋を相川に移転させた。それが17年(元和3)以後の佐渡奉行所である。相川の地名は採掘現場六十枚間歩(まぶ)のさき,二つの沢の合流点の地名によったと考えられ,初期(1602年まで)は上相川を中心に,以後は台地の末端に設置された陣屋を中心に町割りが形成された。相川の町は元禄期(1688-1704)までに総数100町をこえる。町は鍛冶町(鍛冶職人の集住した町),番屋町(鉱山への入口で採掘現場へ出入りする人をチェックする),床屋町(陣屋の経営する精錬施設),大工町(陣屋お抱えの金穿(かなほり)大工が居住する),海士(あま)町など陣屋の支配した町々,弥左エ門町,九郎左エ門町,小右エ門町,嘉左エ門町,五郎右エ門町など買石(かいし)(精錬業者),山師(採掘業者)の町々,それに炭屋町,市町,瀬戸物町,材木町,塩屋町,紙屋町,四十物町,米屋町,味噌屋町,八百屋町など商品の専売商人の町と3通りに大別することができる。相川には諸国から人がわたってきたが,役人は大久保長安の慶長期,鎮目市左衛門奉行の元和期,伊丹康勝奉行の寛永期(1624-44)に雇われた者が多く,甲州出身者が多い。山師は石見,甲州,買石は備前,備中の人,町人は大坂,堺,伏見,京,江戸,伊勢などの人が多く,金穿大工は加賀,越中,能登,越前など北陸沿岸出身者が多い。相川は寛永末期から金銀山の衰えとともに人口が減少し,以後はほぼ1万人を数えたに過ぎない。金銀山は閉鎖されることなく近代に及んだが,1989年3月,約400年にわたる採掘が中止された。
執筆者:

佐渡市南東部の旧村。小佐渡丘陵南側,佐渡海峡に面する。旧佐渡郡所属。人口3121(2000)。村域の大半は山地で,野菜,果樹の栽培が行われるほか,沿岸漁業が盛んである。中心の赤泊港は本土の長岡市の旧寺泊町に最も近く(約40km),背後の小佐渡丘陵が冬の北西季節風をさえぎるため,古くから佐渡の玄関口となり,江戸時代中ごろには奉行,役人などの渡海場としてにぎわった。その後も良港として栄えたが,明治初期に始められた両津(夷(えびす))~新潟間の汽船の航路が盛んになり,また小佐渡丘陵が国中平野との陸上輸送の障害となったため,寺泊航路は廃航状態となり衰退した。1973年この航路は夏季のみ,89年からは通年で再開され,佐渡島の第3の玄関口として活気をとり戻している。
執筆者:

佐渡市南端の旧町。小佐渡南西端の半島部にある。旧佐渡郡所属。人口3858(2000)。半島の最高点193m。海岸段丘が発達して,溺れ谷と海食崖が美しい海岸線を形成する。その南岸は1934年佐渡小木海岸として名勝・天然記念物に指定され,沢崎付近には枕状溶岩が分布する。また宿根木(しゆくねぎ)海岸は小木海中公園に指定されている。おもな産業はワカメ,ノリ,イカなどの沿岸漁業,米,タバコの農業,特産に竹細工がある。小木港は天然の良港で明治の初めまでは佐渡の表玄関として栄えたが,その後は新潟,直江津との定期航路が開け(現在は直江津のみ),重要港湾に指定され佐渡の裏玄関として南佐渡観光の中心をなす。宿根木には南佐渡の漁労用具,船大工資料などの国指定民俗資料を集めた宿根木民俗博物館(現,佐渡国小木民俗博物館)がある。
執筆者:

歴史

小木港は1604年(慶長9)大久保長安の代官原土佐(宗勇)が小木城に居住して以来,越後への渡海場として栄えた。元和年間(1615-24)からは小木と越後尼瀬との間が金銀渡海航路とされ70梃立ての船2艘と20梃立ての小早御船が置かれ,渡海船の船着場は〈御座の(ま)〉と呼ばれた。1671年(寛文11)佐渡奉行所は小木港の修築を命じ,城山半島で区切られた外のと内のの間に幅7間半の潮通しがつくられ,これによって風待港(避難港)として新潟への米買船の順番待ち,また北前船の寄港地として栄えた。寛文年間本問屋として10軒の問屋が任命されたが,1751年(宝暦1)からは船宿14軒のうち10軒が本問屋に追加された。この年から佐渡物産の他国出しが許されたことに対応したものである。以来明治にいたるまで軒数およそ750戸,飯盛女の数350人といわれた小木港は北前船へのサービス提供をそのおもな機能として発展した。
執筆者:

佐渡市中部の旧町。佐渡島中央部にある。旧佐渡郡所属。人口7278(2000)。国中(くになか)平野中央と大佐渡山地南側と山麓の段丘面を占め,大佐渡スカイラインの登り口をなす。島内唯一の海に面していない町で米,柿,畜産物などの農業が盛んである。北陸農政局の出張所,県農事試験場佐渡分場(現,新潟県農業総合研究所佐渡農業技術センター)のほか航空自衛隊分屯基地などがある。国道筋に縄文遺跡,国府川筋に弥生末期を中心とする千種(ちぐさ)遺跡がある。泉の里は順徳上皇配所の地で,明治末に整備された黒木御所跡,近くには世阿弥の配所跡とされる正法寺がある。

佐渡市中部南西寄りの旧町。旧佐渡郡所属。人口1万0343(2000)。国中平野の西端部と大佐渡山地の南西斜面を占め,真野(まの)湾に面する。中心市街は石田川河口近くの河原田(かわはらだ)で,中世は雑太(さわた)郡に属し,佐渡の代官,本間氏の居城獅子ヶ城跡がある。島内のバス交通の要地にあたり,商業の町として古くから栄えている。国中平野で稲作,南部の八幡(やはた)の砂丘地では野菜を産する。西部の沢根は奥の鶴子銀山(のち銅山)の積出港として発展した古い港町で,蠟型鋳金による銅器を特産する。市野沢に日蓮が《観心本尊鈔》を著した一谷(いちのさわ)配所といわれる妙照寺があり,二宮(にくう)に実相寺,八幡に佐渡博物館がある。
執筆者:

佐渡市東部の旧村。旧佐渡郡所属。人口4559(2000)。西部は国中平野の穀倉地,東部は小佐渡丘陵にあたる純農村である。トキ(特天)の生息地として知られたが,野生のトキは1982年までにすべて村内のトキ保護センターに収容された。佐渡宝生流家元の本間家があり,能の盛んな村で,村内の各神社には能舞台が設けられている。〈鬼太鼓(おんでこ)〉は雄壮な太鼓の音に合わせて踊る獅子舞で,宝生流能舞がとり入れられている。西部の根本寺は日蓮流謫(るたく)の地。

佐渡市南東部の旧町。旧佐渡郡所属。人口5362(2000)。この地方は奈良時代は東大寺の封戸(ふこ)であり,鎌倉時代には下畑の熊野社跡付近に佐渡守護所があった。町域は,国中平野の一部を占め米作が盛んな北部と,小佐渡丘陵中央部に当たり野菜栽培や酪農が行われる南部からなる。国中平野には条里制の遺構が見られるほか,長谷(はせ)寺,順徳天皇の皇女陵,松ヶ崎海岸の日蓮上陸遺跡などの史跡がある。

佐渡市南部の旧町。旧佐渡郡所属。小佐渡丘陵の南部に位置する。人口4455(2000)。中世,地頭の本間氏がこの地に居を構え,約300年間小佐渡一帯に勢威をふるっていた。町の中央部を北東から南西に流れる羽茂川の流域を中心に農業が盛んで,米作や酪農のほか八珍柿(おけさ柿)の主産地としても知られる。河口の大石は佐渡みそ生産の中心であり,近代的なみそ工場が立地する。町中央部の飯岡にある度津(わたつ)神社は佐渡国の一宮。

佐渡市南部の旧町。旧佐渡郡所属。人口6134(2000)。小佐渡丘陵と国中平野の南東部にあたり,真野湾に面する。農業が主で,平野部では米作,沿岸部では野菜中心の砂丘地農業,東部丘陵地では梨や柿が栽培される。魚介類の養殖も盛んで,みそや陶器の特産もある。古代,佐渡国の国府や国分寺が置かれたところで,承久の乱(1221)で流された順徳上皇の真野陵や真野宮,着船地といわれる恋ヶ浦海岸のほか,佐渡守護代本間氏の壇風城址,寺宝の多い日蓮宗妙宣寺など史跡に富む。
執筆者:

佐渡市北東部の旧市。両津湾に臨む。1954年市制。人口1万7394(2000)。市の中央部は加茂湖をいだく国中平野,北部は大佐渡山地,南部は小佐渡丘陵の東部にあたる。外海府海岸北部から内海府海岸,両津湾岸,新潟市対岸にいたる約87kmの海岸線をもち,その長さは全島の約2/5にあたる。中心市街は両津湾と加茂湖を分ける砂州上にあり,北西部の夷と南東部の湊を合わせ両津となった。佐渡の玄関口は近世までは南西端の小木港で,夷,湊とも小漁村にすぎなかった。1868年(明治1)新潟港の開港に伴い夷港(現,両津港)が補助港に指定され,港湾施設も整備され,また新潟との間に定期航路も通じて佐渡の表玄関となった。加茂湖西岸には佐渡空港がある。市内のほとんどが佐渡弥彦米山国定公園の区域で,佐渡観光の拠点をなし,ホテル,旅館も多い。産業の中心は水産業で,両津湾のブリ定置網漁,加茂湖のカキ養殖が知られ,イカ漁も盛んである。金北山北東に続く高原状のタダラ峰(ドンデン山。934m)にはツツジ,シャクナゲの群落があり,眺望にもすぐれる。
執筆者:

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事典 日本の地域遺産 「佐渡」の解説

佐渡

(新潟県佐渡市)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐渡」の意味・わかりやすい解説

佐渡
さど

佐渡島

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