加賀浦(読み)かかうら

日本歴史地名大系 「加賀浦」の解説

加賀浦
かかうら

[現在地名]島根町加賀

詰坂つめさか山などを境に野波のなみ浦の西に位置し、北西は日本海に面する。大きく入込んだ良港をもち南東には北山山系が連なる。中央を滝空たきんそら山を発した澄水しんじ(加賀川)が加賀湾に流入し、佐波さなみ谷から発する佐波川が佐波湾に注ぐ。「出雲国風土記」の島根郡にみえる加賀川は澄水川に、川来門かわくど大浜は当浦に比定される。中世には加賀庄に含まれた。「堀尾古記」寛永一〇年(一六三三)条に「雲州かゝ浦」とみえ、同年五月一三日夜隠岐国千波村を出立した市橋伊豆ら三名は、翌一四日朝当浦に着船している。正保国絵図には加賀浦・さなみとみえる。万治二年(一六五九)検地帳によると田高四四三石余・反別三三町一反余、畑高二六石余・反別七町五反余、屋敷数四九(うち番所一・御蔵一・庄屋一・役人一・山廻一・寺社三)で、御役目屋敷数四一。元禄十年出雲国郷帳では高五七一石余、寛文四年(一六六四)の本田高五六三石余。「雲陽大数録」では高四九〇石、湊と注記される。寛政四年(一七九二)の島根郡西組村々万差出帳(土井家文書)では高五一〇石余、うち引方一四二石余、残高三六七石余(反別三一町余)で、残高のうち田高三〇八石余・畑高五九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報