加賀庄(読み)かかのしよう

日本歴史地名大系 「加賀庄」の解説

加賀庄
かかのしよう

現加賀・大芦おわしと現鹿島かしま御津みつ南講武みなみこうぶ・北講武などを含む地域にあったと推定される京都蓮華王院領庄園。加々・賀々とも記す。天福二年(一二三四)九月一〇日の加賀庄持田村起請田目録写(水無瀬神宮文書)に「加賀御庄持田村」とみえ、同村は成立期には当庄の一部で、現松江市西持田にしもちだ町・東持田町域も含んでいた。しかし嘉禎二年(一二三六)三月八日の持田庄所当米注進目録写(同文書)では持田庄は当庄とは別の独立した一個の庄園としてとらえられており、天福二年の起請田目録は持田庄を独立させるための調査であったことが知られる。以後当庄は持田庄を除く地域に限定されることとなった。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳には第一八番に「加賀庄九十四丁二反小土屋右衛門尉子」とあり、持田庄と同じく相模国の西遷御家人土屋氏の一族地頭であった。元弘三年(一三三三)一一月一二日後醍醐天皇は水無瀬具兼に蓮華王院領の加賀庄・持田村について濫妨をやめ、所務を全うするよう命じている(「後醍醐天皇綸旨」水無瀬神宮文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報