利伽羅村(読み)くりからむら

日本歴史地名大系 「利伽羅村」の解説

利伽羅村
くりからむら

[現在地名]津幡町倶利伽羅

礪波となみ山丘陵、国見くにみ(二七六・八メートル)北側鞍部の倶利伽羅峠から西の稜線に位置し、北陸街道の加賀・越中国境にあたる。古くから交通・軍事上の要衝として知られる。天正一四年(一五八六)前田利家は逃散した百姓は立帰って町を立て商売すること、往還の荷物は当地でいっさい中継しないこと、労役・伝馬・諸役を免除すること、往来人の非分は大罪とするという高札を出し、戦乱によって離散した倶利伽羅村を復活させた(「みそぶたの御印」俵文書)。天正年中利家に協力したことで往来に家作拝領した家は一四軒という(「倶利伽羅村立由来書案」同文書)。慶長一六年(一六一一)加賀藩三代藩主前田利光(利常)は倶利迦羅明王院(長楽寺)へ倶利伽羅村の五三石と山手銭一一俵二斗を祈祷料として寄進した(「前田利光判物」十握家旧蔵文書)。元和七年(一六二一)には明王院堂領として当村五三石・山手米五石余・検地出分三七石余の合計九五石余を寄進(「前田利光黒印状」同文書)

正保郷帳には倶利加羅村とみえ、高九〇石余、田方二町五反・畑方三町五反余。明暦二年(一六五六)改作法施行により長楽ちようらく寺の「一山不残拝領」から百姓門前も十村裁許となり(「長楽寺由来書」十握家旧蔵文書)、寛文三年(一六六三)には長楽寺領一一一石余のうち夫銀・口米を藩御蔵へ、ほかは寺蔵屋敷へ納入した(「社領所付」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報