俵屋町(読み)たわらやちよう

日本歴史地名大系 「俵屋町」の解説

俵屋町
たわらやちよう

中京区富小路通二条下ル

南北に通る富小路とみのこうじ通を挟む両側町

平安京条坊では左京三条四坊四保九町の東側の地。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「田原町」とあり、筆描図系絵図では寛永以後万治以前京都全図で「たはら町」、寛文後期洛中洛外之絵図で「富小路通俵や町」とし、以降「俵屋丁」となる。一方木版図系では、寛永一八年以前平安城町並図に「俵や丁」とみえ、以降変化はない。

俵屋町
たわらやちよう

中京区御池通大宮東入

東西に通る御池おいけ(旧三条坊門小路)を挟む両側町で、黒門くろもん通を中にして二地域に分れる。

平安京の条坊では、左京三条二坊一保二町の南側及び同二保三町北側、平安中期以降は三条坊門大宮大路の東にあたる。平安時代、町の南側は兼明親王御子左みこひだり邸の地であった(拾芥抄)

俵屋町
たわらやちよう

下京区麩屋町通綾小路下ル

南北に通る麩屋町ふやちよう(旧富小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条四坊四保一〇町の東側と同一五町の西側にあたり、平安時代中期以降は綾小路富小路あやのこうじとみのこうじの地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「俵屋町」とあるのが初見で、以後変更はない。

俵屋町
たわらやちよう

上京区中町通丸太町上ル

町の西を西三本木にしさんぼんぎ通、中央を中町なかまち通が南北に通り、南は丸太町まるたまち通。

寛永一八年(一六四一)以前平安城町並図に「たわらや丁」とみえ、正徳・享保間京大絵図は「たわら丁」と記すが、寛保初年以降の絵図や地誌には俵屋町と記される。

俵屋町
たわらやちよう

中京区夷川通富小路西入

東西に通る夷川えびすがわ(旧冷泉小路)の両側町。

平安京の条坊では町の北側は左京二条四坊三保一一町南、南側は一二町の北。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「田原屋丁」とみえ、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「俵屋町」と記す。

俵屋町
たわらやちよう

下京区堺町通五条上ル

南北に通る堺町さかいまち通を挟む両側町。

平安京の条坊では左京六条四坊一保七町の地。

江戸時代を通じて町名変更はないが、寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「田原屋町」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報