信太庄(読み)しだのしよう

日本歴史地名大系 「信太庄」の解説

信太庄
しだのしよう

現在の稲敷郡西部から土浦市・新治にいはり郡南部にかけて存在した荘園。信太郡は平安時代後期に小野おの川を境にしてとう条と西さい条に分れる。仁平元年(一一五一)平忠盛の妻藤原宗子(宗兼の女で頼盛の母。のちの池禅尼)は、西条を美福門院に寄進、信太庄を立荘した(「安嘉門院庁資忠注進抄写」東寺百合文書)。当時、平頼盛は常陸介であり、寄進に関与した頼盛の手に領家職は伝領され、本家職は永暦元年(一一六〇)に死去した美福門院から八条院に伝えられ、女院庁の庁分の荘園の一となっていく(安元二年二月日「八条院領目録」山科家古文書)

北は桜川を境に南野みなみの庄、西は花室はなむろ川・乙戸おつと川を隔てて田中たなか庄、南は乙戸川・小野川を境として河内かつち郡と接し、田地六二〇丁、うち本荘四一〇丁・加納二一〇丁(弘安・嘉元両大田文)を擁するこの広大な荘は、当初「国八丈絹三百疋、仕丁六人」を本家分の年貢・公事として負担していた(安嘉門院庁資忠注進抄写)。ただ寄進の主体となった西条の領主、荘の下司は、紀氏だった可能性もあるが(菅谷系図)、確実なことはわからない。平安時代末、東条を含むこの地に、志田義広が勢威を振るっているが、義広も下司とは断定できない。しかし治承七年(一一八三)の義広の乱後、鎌倉幕府によって八田(小田)知家が地頭職に補任されたことは推定してまず誤りなかろう。一方、領家職は頼盛から子息光盛に伝えられるが、光盛は当庄と南野庄とを何者かと交換しており(六月七日「源頼朝書状」久我家文書)、建暦元年(一二一一)以前に八条院は領家職を河内の金剛寺に祈祷料所として寄付した(年未詳三月二〇日「氏名未詳奉書」金剛寺文書)。また本家職は安嘉門院・亀山上皇を経て、後宇多上皇の管領下、昭慶門院に伝領され、建治二年(一二七六)当時、公田八二六丁、本家年貢国絹三三〇疋といわれているが(安嘉門院庁資忠注進抄写)、年貢の貢進が順調であったとは思われない。

これを請負っていた地頭は、鎌倉中期までに小田氏から北条政村に代わったとみられ、あるいは承久の乱で京方となった小田知尚の没収跡ではなかったかとも思われる。その頃、荘内の六六郷は西半の上条、東半の下条に分れていた。上条には大村おおむら(現新治郡桜村)吉原よしわら福田ふくだ荒川あらかわ小池こいけ(現阿見町)、土浦(現土浦市か)、竹岡・弘戸ひろと(現在地不明)などの諸郷が属し、矢作やはぎ上高井かみたかい下高井しもたかい大岩田おおいわた(現土浦市)、青谷・竹来たかく阿見あみ(現阿見町)、上茂呂(現美浦村か)などを含めて政村から政長、さらにその子孫へと分割相伝され、下条の本郷ほんごう(現美浦村信太)はなわ若栗わかぐり(現阿見町)飯岡いいおか(現牛久町井ノ岡)、それに弘岡ひろおか(現桜村、上条か)、御安戸(不明)などの諸郷は政村の別の子息政頼の子孫たちに分け譲られたものと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報