余地村(読み)よちむら

日本歴史地名大系 「余地村」の解説

余地村
よちむら

[現在地名]宇ノ気町余地

上田名うわだな村の北東、宇ノ気川上流に沿う谷間に位置。文政九年(一八二六)の河北郡図は左岸に北から中余地なかよちカクチ(垣内)・タダスカクチ・法徳ほうとくカクチ、右岸に与三右衛門よそうえもんカクチ・六右衛門ろくえもんカクチを記載。「三州地理雑誌」はほかに坪之内つぼのうちカクチ・中村なかむらカクチ・地蔵じぞうカクチ・カミカクチを記す。「加賀志徴」はただす村について余地村の垣内とし、京都上賀茂社領であったとする。

中世は金津かなつ庄の内。享禄(一五二八―三二)頃と推定される七月二〇日の金津庄村々納銭注文案(賀茂別雷神社文書、以下同文書は省略)では、公用銭六五貫二五七文のうち一〇貫八〇四文が「与知村納」とされる。

余地村
ひよじむら

[現在地名]周東町大字樋余地

玖珂郡の西端部、東北は獺越おそごえ、東南は須通すどおり、西は熊毛くまげ八代やしろ(現熊毛町)の各村。四面に山を負い、東南の山高く、中央部は平坦で田畑が開ける。檜与地・檜余地とも記した。萩藩領熊毛宰判に属する。

中世に椙杜すぎのもりとよばれた地域を近世初期に分割してできた村で、寛永三年(一六二六)の熊野帳に「本郷・檜余地・久原 七千四百三石四斗壱升弐合」とある。村名由来は「注進案」に「当村開地の已前は檜山なりし由、天火にて焼失し、其後開地なりしに依、檜余地・日余地の両訓をとりて、檜余地と書来り候由」とある。

余地村
よじむら

[現在地名]佐久町大字余地

関東山系余地峠付近に源を発して西流し、上海瀬かみかいぜ畑中はたけなか抜井ぬくい川に合流する余地川の谷に所在する。本郷ほんごう野尻のじり中谷とうげの四集落が標高八〇〇―九〇〇メートルの間に位置する。

谷の入口、余地川の谷と抜井川の谷を分ける尾根末端勝見かつみ城跡がある。十石じつこく峠を経て武州秩父に通ずる武州道と、南牧谷なんもくだにを経て上州に通じる余地峠道の両路を扼し、南方抜井川対岸の段丘上には館氏館跡があり、さらにその西方には花岡はなおか狼煙台跡がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報