佐敷間切(読み)さしちまぎり

日本歴史地名大系 「佐敷間切」の解説

佐敷間切
さしちまぎり

琉球王国の地方行政区画。現佐敷町の中央部から東部にわたる一帯が範囲と考えられる。島尻方所属。佐敷郡ともみえ(「球陽」尚敬王一七年条)、「おもろさうし」巻一九の七などには「さしき」とある。延祐元年(一三一四)琉球国王玉城が即位したものの、政務を怠ったことから王国が三分、佐敷・知念ちにんなど一一ヵ所は山南王を称した大里按司に従ったという(「中山世譜」巻三)。これを一一ヵ国ともする(中山伝信録)。山南の佐敷には思紹(尚思紹)とその子の尚巴志がおり、佐敷上さしきうえグスクを拠点としていたが、永楽四年(一四〇六)中山の浦添うらしーグスクを攻めて武寧を滅亡させ、中山を掌握するに至った。思紹は武寧の息子であると偽って王位継承の正統性を称し、中山王となることを明に認めさせることに成功したという(「球陽」武寧王一五年条・尚思紹王二年条など)。嘉靖元年(一五二二)四月九日の真珠湊碑文に「ちへねんさしき」とみえる。

正保国絵図に「佐敷間切さしきまぎり」とあり、高九二八石余。また海岸寄りの陸路が朱線で記されるが、島尻方東海道と考えられる(正保三年絵図帳写)絵図郷村帳に「佐鋪間切」とあり、「屋びく村」(屋比久村)・「てどこん村」(手登根村)与那嶺ゆなんみ村・佐鋪村・平田ひらた村の五ヵ村が記される。また「当時無之」として「なわしる村」「あかう村」が記載される。琉球国高究帳に「佐鋪間切」として「屋びく村」・「てどこん村」・佐鋪村の三ヵ村が記載され、高九二八石余のうち田七〇八石余(うち永代荒地七石余)・畠二二〇石余。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳では佐敷間切として高九二八石のうち田七〇八石余・畠二一六石余、桑四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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