知念間切(読み)ちにんまぎり

日本歴史地名大系 「知念間切」の解説

知念間切
ちにんまぎり

琉球王国の地方行政区画。現知念村のほぼ全域にわたる一帯が範囲と考えられる。島尻方に属する。知念ちにん郡ともみえ(「球陽」尚敬王三九年条)、「おもろさうし」巻一九の三一などに「ちゑねん」とある。延祐元年(一三一四)琉球国王に玉城が即位したものの、政務を怠ったことから王国が三分、佐敷さしち知念ちにんなど一一ヵ所は山南王を称した大里按司に従ったという(「中山世譜」巻三)。これを一一ヵ国ともする(中山伝信録)。嘉靖元年(一五二二)四月九日の真珠湊碑文に「ちへねんさしき」とみえる。「球陽」天孫氏の条によれば、麦・粟・黍が天然に久高くだかに生じ、また稲苗が知念と玉城たまぐすく(現玉城村)に生じたので、領民に初めて農事が興ったという。国君は毎年(のち隔年)二月久高島に、四月知念・玉城に行幸し、五穀を生じた聖地で稲穂祭を親拝したと記される。しかし遠路で海を隔てる地であるため、康熙一二年(一六七三)旧制を改めて代参になったという(同書尚貞王五年条など)正保国絵図に「知念間切ちねんまぎり」とあり、高八九八石余。久高島と結ぶ海路のほか、海岸に寄りがちの陸路が朱線で記されるが、島尻方東海道の道筋であろう(正保三年絵図帳写)。絵図郷村帳には知念間切内として「しきや村」・中里なかざとう村・知念村・「くてけん村」・知名ちなー村・「はちミ嶺村」・山口やまぐち村・「あさま村」および久高島の八ヵ村・一ヵ島が記される。また「当時無之」として「なかたう村」「はたま村」「さうす村」の三ヵ村が記される。琉球国高究帳では志喜屋しちや村・中里村・知念村・久手堅くでいきん村・知名村の五ヵ村と久高島のみで、合高八九八石余のうち田四一三石余・畠四八五石余。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳では高八九八石のうち田四一三石余・畠四六八石余、桑一六石余。里積記によれば、首里城西之御門から知念村内の当間切番所までの道法は三里二合五夕九才(三里九町余)で、国中村位定では仲里・前城めーぐしく下志喜屋しむしちや・志喜屋・知念・久手堅・山口・久高・外間ふかま・知名・鉢嶺はちんみ安座真あざまの一二ヵ村が記される。「琉球国由来記」でも一二ヵ村とし、間切内に御嶽八ヵ所・森一ヵ所・殿一七ヵ所・ノロ火の神五ヵ所、そのほかの火の神七ヵ所があった。「大島筆記」では一〇ヵ所の地名が記載され、うち板良敷いちやなじち(現与那原町)が含まれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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