伏見城跡(読み)ふしみじようあと

日本歴史地名大系 「伏見城跡」の解説

伏見城跡
ふしみじようあと

伏見(桃山丘陵)豊臣秀吉によって築かれた城。関ヶ原合戦に伴う東軍と西軍の攻防戦で被害を受けた後、徳川家康の手で大規模な修築復興がなされたが、元和九年(一六二三)廃城になった。なお秀吉は、慶長三年(一五九八)八月一八日伏見城で没している。

秀吉は天正二〇年(一五九二)、伏見に隠居屋敷を建設することを決めたようで、「兼見卿記」によれば同年八月二〇日屋敷普請縄打ちを命じている。同年一〇月には早くも石垣などが築かれ、隠居城が姿をみせ始めていた(多聞院日記)。同年一二月一一日付の前田玄以宛秀吉書状(保坂潤治氏所蔵文書)によれば、伏見屋敷の普請に関して地震に気をつけるべきことと、作事は「りきう(利休)にこのませ候て、ねんごろに申つけたく候」と、利休好みにするよう配慮せよと命じていることが知られる。翌文禄二年(一五九三)閏九月、秀吉は伏見屋敷に移徙しており、縄打ちを命じてから、ほぼ一年で一応の完成をみたようである。この伏見屋敷の位置については明らかではないが、宇治川に近い伏見山南西麓の指月しげつの森辺りではなかったかと推測される。

秀吉は文禄二年の暮れには、この伏見屋敷を造替し、壮大な城郭にすべく決意したようで、文禄三年正月三日には造営奉行衆が任命されている(当代記・太閤記)。なぜ、完成して間もない隠居屋敷を、新たな城郭に造替するに至ったかについては、折からの朝鮮講和使節を迎えるにふさわしい舞台作りや、秀吉の権力を誇示する施設を得んと思いたったことなどが、その理由にあげられている。

「慶長年中卜斎記」は、「文禄三年、秀吉公山城国伏見指月を、仮初のことくに城を構へ、日を追つて次第に結構に石垣御殿天守出来」「東国北国西国の大名皆々伏見へ移り家作り夥し」と記し、指月の屋敷をそのままなしくずし的に拡大する形で城郭が構営されたとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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